十二月十日(火) 曇天、一時雷雨

 次回の「中仙道を歩く」旅が明後日にせまりました。そこで、宿題を残しておくのもいやなので、今日は、先日書き上げて配信した、ワード版『中仙道を歩く 高崎宿』をパワーポイント版(冊子版)にコピー、編集しました。W版では、写真のレイアウトがままにならないですよね。P版では自由自在。枚数も増やして楽しく作成してしまひました。

それにしても、思ひ返すも腹立たしいのは、碓氷峠のアプト式ラックレール区間を廃止してしまつたことです。悔しいから、スイス山岳鉄道の思ひ出写真をたくさん載せてしまひました。

 

《伊豆の山暮し》その二

ラムとの出会ひは、ある時突然ではあつたが、その「時」は、導かれてゐたとしかいひやうがない。

ぼくは、そもそも東京から離れるなんて、考へもしなかつた。大学の進学が阻止されなければ、決して離れなかつたであらうし、また学生結婚して関西へ移り住むはづもなかつた。二年間の課程を修了し、次に移つたのは、東京に帰りたいといふ妻と妥協した静岡県清水市だつた。六年間、一応まともに働くことができた。しかし、限界。今度は、浜岡町に行き、そこで五年。さらに、横浜市でおよそ八年。横浜で、ぼくは密かに山暮らしを計画し、清水の興津川上流、富士川の支流稲子川の最上流、或は檜原村、そして最後は、清水以来親しくしてゐた伊藤さんに伊豆を紹介されたのだつた。

しかし、ことは簡単ではなかつた。紹介された家(古民家)の親戚のおばちやんが出てきて、阻止されてしまつたのだ。困つてしまつたのが、途中まで話が進み、改築の準備を始めてゐた大工さんである。ところが、その大工さん、自分が探してやるよと言つて、ほんとうに、さらに山深い、しかも、すぐには住めないやうな半廃屋を見つけだしてくれたのだつた。

だが、大工さんの案内で、伊藤さんとうかがつたとき、ぼくは、「ここだ」と信じられたのだつた。ちようどゐあはせた大家さんといふか持ち主のかたにお会ひでき、家賃の安さにビックリ。さうだらう、ほとんど手を入れなければ住めない状態なのだ。

その場で、伊藤さんの協力を得て、契約をかはし、大工さんには、廃墟の柱部分をすべて生かす形で、ぼくがおほまかな設計図を作ることを約束して帰路についた。ぼくの人生、これが脱世間の第一歩だつた。 一九九三年の秋のことでした。(つづく・・)

 

今日の写真:高校生のころ、従弟たちと碓氷山中キャンプし、熊ノ平駅まで、アプト式レールを歩いたとき。スイス山岳鉄道で一番気に入つた、シーニゲプラッテ鉄道。それに、背中をむけてマッサージをせがむ今日のラム。