十二月十六日(月) 晴れ、風強し

 今朝は、「中仙道を歩く十一」、道祖神について書き終へました。日本橋から今まで、道祖神といへば、石柱に「道祖神」と刻まれたものばかりだつたのですが、ここに来て、いきなりアベックですものね。何で、と言ひたくなります。調べてみると、このアベック、「双体道祖神」といふのらしいのですが、このはうがずつと古いものらしいのです。それも、『日本書紀』にその源が見られるのです。原文を含め、ちよびつと考察を加へてしまひました。

続いて、皇女和宮さんが宿泊されたといふ、板鼻宿本陣のことですが、想像してゐたイメージとあまりにもかけ離れてゐたので、コメントの仕様もありません。その降嫁、行列ときたら前代未聞の規模だつたといふことですから、その痕跡を見いだせるかなと考へてゐたのです。もちろん、本陣の建物も跡形もなく、泊まられたといふ部屋が、そこだけ切り取られてあるだけなのです。

そこで、この十月に、古書市で掘り出した『中山道 安中宿本陣文書』を取り出し、「姫宮の通行 和宮」の部分を読んでみようと頁を開きました。和宮さんの京都出発は、文久元年(一八六一年)十月廿日でした。『本陣文書』では、同年三月十五日から、関連した文書が記載されはじめます。いや、内容は別にして、本文は翻刻してあるので、読むことは容易です。ただ、内容をどう理解するかですね。その点、多少なりとも勉強してきた甲斐がありました。ここでも実力が試されさうです。

 

考へ事をしてゐると、すぐにお昼になつてしまひました。早めにいただいて、弓道場へ直行です。飲み会には出られるのにお稽古は休まれるのですか、なんて皮肉を聞きたくないですからね。月曜会のメンバー四人で、楽しく弓を引くことができました。それに、ぼくは、今日から、先生が作つてくださつた(!)「ノート」に、成績をしつかり記録しはじめたのであります。もちろん非公開です。

 

ところで、昨日、母がまたやつてくれたのです。しばらく前の新聞に、「歩こう会」主催の〈納会ウオーク〉といふのが掲載され、行きたいといふのです。よく見ると、お花茶屋から綾瀬までといふので、安心して送りだしたのです。ところが、帰宅するや、「たくさん歩いたんだよ」と言つて、そのさしだしたパンフレットを見てびっくり! 曳舟川(葛西用水)をさかのぼつて、埼玉県境の垳川に到り、ふれあい桜橋から川沿へを西に、綾瀬川にぶつかつたところを、南下、そして綾瀬に向かふといふ、十四キロのコースだつたのです。それでも母は、なんでもなかつたと言つてケロつとしてゐるのですよね。わが母ながら、あきれ返つてしまひました。

 

 今日の写真:伊豆の山暮し、囲炉裏で焼きおにぎり。それに、けふのラムです。ぼくのそばに寄り添つて、いつまでかうしてゐられるのでせうか。