十二月二十二日(日)壬戌(旧十一月二十日・冬至) 晴れ、風強し

 けふは一日横になつてゐました。これをパヂヤマデイと呼んでゐます。やはり、一昨日の検査と化粧の匂ひと「腿のふとき」が原因かと思ひます。心の臓が落ち着いてくれないのです。

 ところで、困つたことになつてゐます。それは、『日記帳』が必要なくなつたことです。これをデヂタル革命とでもいふのでせうか? 一九六五年十二月二十六日以来、大学ノートに、十年日記に、五年日記に、鉛筆で、万年筆で、ボールペンで、そして筆ペンで、それも横書きから縦書きへと書き方も工夫して書き継いできた日記、それが今や、電子信号(?)にとつて替はられやうとしてゐるのであります。あと十五年は書き続けたいと用意した、ドイツ製の革表紙五年日記三冊をどうしてくれるんですか!

 いへね、ここで怒つても仕方ないことですが、かうも自由に書けるのであるならば、受け入れるしかないんでせうね。もちろん、ワード文書として保管できるやうに工夫はしてゐるのですが・・。

 さう、けふは寝てばかりゐたのではありません。このひと月ベッドの中で読み続けてきた、『古文書はこんなに面白い』(油井宏子著)を読み終へることができたのです。特に、その第一章の「おでんちやんの寺子屋規則」は、古文書の勉強として面白いだけでなく、その内容がまた、今日の親たる者、教師たる者に読み聞かせたいものなのです。ぼくは、その全文をコピーして、油井先生の言はれる通りに、繰り返し音読してきました。第二章は、よりくづしのきつい文字がならぶ文書でしたが、これもコピーしたいと思つてゐます。

 くづし字について学びはじめたのは、今年の四月ころから、古文書については、五月六月と行はれた、一葉記念館での「くづし字解読講座」に参加してからですかね。ぼくの人生にとつての新たなる世界への挑戦でした。だつて、たかが百年前まで日本国中で使はれてゐた文字体系が、まつたく読めない、理解されない、英語など諸外国語の陰にかくれて、ぢやない、埋もれてゐるなんて、日本の国の歴史に生きる者にとつて、許しがたい、いや訂正、我慢できないぢやありませんか。国を愛せよなんて、超大国の尻馬に乗つて国民を苦しめて、反省の色もないやからが言ふことですか! ぼくは、断固、歴史、古文書の世界に浸つてやるのだ!

 いや、熱くなつてしまひました。さうですよね、いい景色だ、素晴らしい建物ですね、と言つてゐるだけなら、歴史を訪ねてゐるのではなくて、現在をながめてゐるだけのことなんです。それは歴史探訪ではなく、ただの観光といふべきでせう。書画美術工芸品についても同じです。問ひかけてくるものに呼応する、その覚悟が必要なんだとぼくは自戒してゐるのであります。はい。

 八月は、ぼくは、覚悟をもつて、「くづし字・古文書解読強化月間」といたしまして、あれこれテキストを探しました。この一月にネットにつないだばかりの初心者ですが、探せばあるもんなんですね。「インターネット古文書講座 群馬県立文書館」といふのを見つけ、開いたところがビツクリ! ただ古文書が配列されてゐるだけ。けれど、これはぼくのやる気を刺激しました。全二〇四項目ですが、一日一項目を読もうと自分をけしかけたのであります。八月一日から、十八日までは一日一文書でしたが、分量が多くなつてきたので、以降は少しづつ読みついでゐます。中には、武田信玄から出された朱印状があり、高崎藩の家老就任の際の「起請文」なんて、今の政治家すべてに大声で読み聞かせたいです。たとへば。

 「私共御家老被仰付、高崎御城被差置候上者、公儀御法度者不及申、仰付候趣堅相守、弥重御前、御爲第一奉存、御役儀急度訳立候様可相勤候、聊以御後闇儀不任、(中略)・・、町在共仁心ニ罷成候様可心懸事」と、かうですよ。「後闇(うしろぐら)き儀仕らず」なんていいでせう。でもね、歴史は、人を裁いたり、非難するための道具ではありません。自分に問ひかけてくる声に聴かないならば、なんの意味もないものだと思ふのです。

 あ~、疲れました。 これで筆を擱く、でない、電源をオフにします。

 

 今日の写真:二〇〇七年十二月三十一日の日記と新しい「五年日記帳」。 伊豆の山暮しの珍しい雪景色。 寒くてヒーターの前から動かうとしない、今日のラム。