十二月二十六日(木)丙寅(旧十一月二十四日) 曇天

  今朝の葛飾FM。「さぼてん」「希望」「上を向いて歩こう」「昭和枯れすすき」「長崎の鐘」などで目が覚め、続いて「親と子の論語の時間」です。「子のたまはく、知者は惑わず、仁者は憂えず、勇者はおそれず」でした。これ、魚返善雄センセによると、「チエの人はまごつかない。なさけの人は苦にしない。勇気のひとはおびえない」と訳されてゐます。

 さて、記すのも恥ずかしいのですが、今日もパヂヤマデイでした。言ひ訳ではないんですが、妻が言ふとほり、ぼくは、若い時からさうだつたんです。それでも自慢ではありませんが、勉強と読書はつづけたのです。もしかしたら、ぼくの特技なのかもしれません。ベッドが書斎です、なんて言ふとかつこいいのか、愚かなのか、判断に苦しみますが・・。

 ところで、昨日は、病院へ行き、あれこれふだんはしない検査まで受けて、昔のことを思ひ出したしまひました。だつて、この慈恵大学病院の小児病棟は、ぼくの人生の学校だつたんです。今でも、同室の少年少女たちの顔と声が思ひ浮かびます。ちようど東京タワーが建設中で、合計すれば一年ほどの入院生活から解放され日、屋上で父が撮つた写真に、お世話になつた先生方の後ろに薄つすらと写つてゐます。

 何を学んだのかといへば、一言では言へませんが、人は一人ひとり、他の人には決して代はつてはもらへない、自分自身の人生を生きなければならないといふことだと思ふんです。隣のベッドで苦しみもがいてゐる加藤君のうめき叫ぶ声が、ぼくには今も耳もとに聞こえ、どうしても忘れることがでません。そのやうに、とおる君も苦しみながら、たつた三歳の人生を去つていきました。あの子、この子、みなどうしてゐるのだらうか、ぼくは、その誰一人をも助けてあげることができませんでした。こんなことが、ふと思ひ浮かぶたびに、ぼくは、自分がどこに立つてゐるのか問はれ続けてきたといつても過言ではありません。助けたくても、助けられない、助けてもらいたくても助けてもらえない人間の存在だからこそ、助けあはなければいけないんだと、ぼくは思ふことにしてゐます。

 ふだんは、何気なく、また混んでるなと、不平がでたりしますけど、みな重い自分を負つて来てゐるんです。病院だけではないでせう。どこでも、自分の置かれたところで、みな重荷を背負つてゐるんですよね。ぼくは、ぼく自身を生きることで、あの加藤君たちのあのキラキラしてゐたまなざしに恥じない生活をしていきたい。

 今日の写真:昭和三十三年(一九五八年)頃の病院生活。一枚目は、ぼくと加藤君。二枚目には、ペラペラしたゆかたを着たニコニコ顔の加藤君と左には抱かれたとおる君が写つてゐます。三枚目は、退院の日、小児病棟屋上にて、左は弟、後ろには建設中の東京タワー。