正月四日(土)乙亥(旧十二月四日) 晴れ

 ホームページ「ひげ日記」を書きはじめてからまだ一週間。試行錯誤の日々が続いてゐます。もともと苦手なこともあつて、一度壁にぶつかると、お先真つ暗になつてしまふのです。それでも、知恵をかしてくれる友人らの応援を得て、続けてまゐりました。

例へば、ホームページ右手に並ぶ日付です。その日に書き入れるはうを、苦労して上にもつてきました。しかし、十二月分がでんとして動かないので、これでは永遠に下へ下へと延々と繰り下がつていくことになります。恐怖です! せめて月ごとにまとめられないのかといふのが最大の壁です。さらにまた、文字です。ぼくはあれこれ見くらべて、「HGP教科書体」を使つてきました。けれども、これは縦書きにはいいのですが、横書きに変換してみますと、線が細く、同時に色も薄いやうに思へるのです。そこで、これもこれあれくらべました結果、「HGP平成明朝体W3」にしてみました。いかがでせうか。そのほか、ホームページ「ひげ日記」を読んだ方との応答がどうしたらできるのかもよくわかりません。知人間ではメールで間に合ふわけですが、ホームページを見て応じてくださつた方へは、まだ未知の世界です。

そんなことにも気をつかひながら、今日やつと、『一路』の上巻を読み終へることができました。まあ、実に上手いとしかいへません。何度も泣かされました。そんな中で、泣いたわけではありませんが、ちよいと面白いなと思つたのが、「元号」について、一路がひとり考へてゐるところです(一九六頁)。

 「おのれは天保十四年癸卯の生まれだと言うたところで、本年文久元年辛酉にはいったい何歳であるのか、とっさにはわかるまい。これが西洋暦の一八四三年の生まれならば、一八六一年の今年は算え十九だと子供でもわかる。そのたった十九年の間に、元号は、「弘化」「嘉永」「安政」「万延」「文久」と、五度も変わったのである。年の隔りは干支で算えるほかはないのだから、元号などはほとんど意味があるまい。」

 長い引用でしたが、ここにはいくつか考へるべきことがあります。一つは、「元号」です。著者の浅田次郎さんがどのやうな意味をこめて使はれたかはわからないのですが、ぼくが学んできたところによれば、「元号」は、天皇が在位した年に定められて使はれるもので、天皇が変はる時に元号も変へられるといふ場合です。たとへば、明治以降の「一世一元」がさうです。それに対して、ひとりの天皇在位中にころころ変へられるのは、ぼくは「年号」と呼ぶべきではないかと思ふのです。それがひとつ。

 それと、明治のはじめに暦が太陽暦に変へられたあたりから、「西暦」も使はれるやうになりましたが(ユリウス、グレゴリオ暦は十六世紀末に紹介され、キリシタンの生活に使はれてゐたさうです)、それ以前はどのやうにして年数を数へてゐたのか、ぼくはずつと疑問だつたのです。たしかに、一路が言ふやうに、干支を用ゐて数へるしかなかつたのだと思ひます。

 そのためにぼくの作つた、といふより、コピーして使はせていただいてゐるのが、写真の「日本干支年表」です。大化から昭和まで六〇年サイクル表です! このやうな干支の利用によつて、「年号」を越えた年数が数へられてきたのではないかと思ひます。一路の、「年の隔りは干支で算えるほかはない」といふ言葉はそのことを意味してゐます。

 ぼくは、だからといつて、「元号などはほとんど意味があるまい」とは思はないんです。年号は日本の歴史の文化そのものであり、文化遺産ともいへます。古くは、大化改新からはじまつて、大宝律令、和同開珎、天平文化、延暦寺、保元・平治の乱、中世以降では、承久の乱、貞永式目、天正の遣欧使節、元禄文化等々、もう文化どころか歴史そのものです。まあ、ぼくは、便利な西暦と年号は上手に使ひわけていけばいいのだらうなと思ひます。

今年は平成二十六年甲午(三一番目)の二〇一四年です。いはゆる「午」(馬)年です。

今日の写真:「日本干支年表」(部分拡大と書き込み年表)とけふのラム。