正月九日(木)庚辰(旧十二月九日) 晴れのち曇天、寒い

 今日は終日、「中仙道を歩く十一」の、パワーポイント版へのコピー・編集に取り組みました。ワード版からのコピー・編集はたしかにめんどうなんですが、ここは思ひ切りよく、写真をたくさん加へることで、おさまりをつけました。そのかはりページ数が増えて、これまで最高の十八枚(二折りで三十六ページ)になつてしまひました。やつと完成です。

 今までは、それをプリントして冊子にし、差し上げてゐたのですが、それは取りやめました。それで、ずいぶん荷が軽くなりました。手にしてゐた方もほつとしてゐることでせう。

 よくわかつてゐるのです。あの落語「寝床」の中の、大家さんの下手な義太夫と同じぢやあないかと、どこからか声が聞こえてきさうです。まあ、ぼくの道楽ですから、はた迷惑にならないやうに、ただひたすら歩むだけなんです。はい。

いや、ぼくは「自虐史観」に陥つてゐるわけではないんです。歴史が語りかけてくるものに耳と心を傾けなければならんのです。なんでこんな世の中なのか、誰彼他人を批判したところでどうしやうもないことで、せめて、ぼく自身がどこに立つたらいいのか、歴史からそれを学ぶことが、ぼくの今の生きる使命なのかなあと思ふだけなんです。希望してくださつた、空メールの方にひつそりとお送りしますので、もう少しお待ちくださいませ。

 

伊豆の山暮し》その九

 水源確保の話を続けます。水が涸れることのない水源を探して、しばらくは山を探し歩きました。

この山の中の集落は、江戸時代の墓があちこちから見つかるやうに、たいへん歴史のある場所だつたやうなのです。ここにも、あそこにも家があつたんだよ、と地元の方から教へていただくこともしばしばでした。ですから水源がないはづはないのです。では、ぼくが住みはじめた集落の十数軒は、どこから水を引いてゐたのかといへば、少し離れた、谷川からでした。頑丈な水槽に谷川の水を溜め、そこから各家に引いてゐたのです。 

しかし、一軒だけ、どうもそこからは水がひけない、つまり谷川の水槽より標高の高いところにある家があつたのです。もちろん、現在は、ポンプの力で押し上げることができますから、問題はないのですが、ぼくは、この家の上に水源があるに違ひないと検討をつけました。

幸い、ぼくの住まひの、問題の谷川、ではなく涸れ谷とでも呼んでおきますが、その谷を挟んだその山の上のはうだつたのです。的が絞れたわけです。そしてたうとう見つけました。昔ミカン畑だつた森の、石垣の隙間から水が流れ出てゐたのです。今では、あたりはぬかるみ状態。よく見れば、イノシシのぬた場になつてゐるやうです。 

その貴重な水源の写真が前ページの上の写真です。もつとも、どくどく湧き出てゐるやうなものではありません。それをどうしたら急な山の森の斜面を引いてこれるのか。すでに、写真に明らかですが、自由に曲がるチューブによつて引いたのです。それは、あの、この伊豆を紹介してくださつた伊藤さんが、それなら、会社で使つてゐたチューブがあるよ、と持つてきてくださつたのです。冷凍液を通して、スケートリンクを凍らせたり、下田港の船の冷凍のために使用してゐたもののやうなのです。長いのです。実に長いので、ぼくはこんなものがあるのかと思つて、狂喜しましたよ。いくらなんでも、塩ビニ管では自由に曲がりませんから。

二本が一本のやうにくつついて、断面は8の字型です。一本、五十メートルもあつたでせうか。それをジョイントでつなぎつなぎして、我が家の谷の出口まで引いてきた写真が、下の写真です。嬉しかつたですね。ところが、思はぬ伏兵が待ち伏せてゐたのです。

 

  今日の写真:水源確保の様子と、ラムの散歩姿。