正月十四日(火)乙酉(旧十二月十四日) 晴れ、風寒し 

今日も、昨日に続いて、デヂカメ以前の山暮しの写真を、デヂカメで複写しました。そして、やつと、ラムと出会つた、一九九八年一月までやつてきました。あとは、「ラム写真集」と並行したものとなりますが、この「山暮し写真集」とともに、デヂカメを使ひはじめた二〇〇二年五月まで、どうにかしてパソコンに取り込んでしまひたいものです。

振り返つてみれば、フィルムカメラからデヂタルへの転換、と言つたら、まだフィルムカメラをお使ひの方には失礼ですが、プロの写真家ではないのですから、その使ひやすさ、特に、枚数を気にしないで写せる気安さは、一度使ひはじめたらやめられません。

フィルム一杯撮り終へたカメラを持つて、何度町の写真屋さんを訪ねたことでせう。出来上がつてみなければ、どのやうに撮れてゐるのかわからないのです。撮り直したいと思つても、時は戻つてはくれないのです。だからこそ、“決定的瞬間”が存在したわけで、デヂカメにおいて、はたして“決定的瞬間”はあり得るのでせうか?

ところで、父は、戦前から日本光学(現ニコン)に勤めてゐたことから、たくさんのカメラを持つてゐました(今日の写真参照)。ただ持つてゐただけでなく、まあ、商売ではありませんでしたが、会社の同僚たちからも、撮影やその現像などを頼まれてゐました。しかし、その現像室たるや、押入れの下段を改造した、半畳ほどの、息苦しくなるやうな所でした。

ですから、ぼくたち兄弟も、よく、現像液に浸かつた印画紙を水で洗ひ流し、ヘロタイプ板に張りつけて乾燥させる手伝ひをやらされたものでした。冬は、指先が凍えてなりませんでしたが、楽しかつたのでせう、不平を言つたことはなかつたやうに思ひます。

そのおかげで、父は、ぼくたち家族や親戚家族の写真をたくさん撮つて残してくれました。本当に有難いことで、感謝にたへません。ぼくは、その影響で、高校時代には写真部に属しましたし、それよりも、ぼくたち三人、弟と妹も、結婚式の集合写真は父が撮つてくれたものなんです。

父は、生前から、大きなカメラは手放してゐたやうですが、今ぼくの手もとには、ニコン3とニッカ(知る人ぞ知る敗戦直後製造のカメラ)しかありません。もう、実際には使ふことはないと思ふのですが、『ニコンF3最強伝説』(枻文庫)なんかをたまには開いて悦に入つてゐます。さういへば、父だつて、もう晩年は、デヂカメ党でした。

 

《伊豆の山暮し》その十一

水源を探すといつて、大騒ぎしてゐるやうですが、水道は一応来てゐるのです。谷川の水槽から各家に供給されてゐたんです。しかし、そんな水にも「薬」を入れるんですね。公共の水道には「薬」を入れる規則があると、見回りの係りの方が言つてゐました。

だから早く水源を探したかつたかといへば、さうでもなかつたのです。むしろ、自給自足の理念に燃えて、理想を追ひ求めてゐたんだらうと思ひます。しかし、まだ時は満ちてゐなかつたのです。最強のチューブが与へられるまで、五年待たなければならなかつたのです。

でも、山路には所どころに泉が湧き出てゐました。散歩の途中には必ず立ち寄つて飲んだり、顔を洗つたり、汗をふいたりで、まことのオアシスでした。けれども、その散歩も、ラムがきてからは、毎日欠かさず、日に何度も行きましたが、それまではほとんど我が家の回りの山の清掃とか、暮しやすくするための努力に費やしてゐたといふのが真相なんです。

 

今日の写真:父愛用のカメラ群! 晩年でも、カメラを手にすると顔つきがしやきつとするんですね。ニコンF3とニッカ。それと、山路の泉。下は、堰き止めて管を通したところ。