正月卅日(木)辛丑(旧十二月日) 曇天、夕方一時雨 

夕べは夜更かしもせず、早く寝たので、六時頃に目が覚めました。いつものやうに、葛飾FMをつけると、フォークソングが流れてきて、そして、《親子で楽しむ論語の時間》がはじまりました。

今朝は、「子曰はく、君子は周して比せず、小人は比して周せず(子曰、君子周而不比、小人比而不周)」でした。岩波文庫では、これを、「先生がいわれた、『君子はひろく親しんで一部の人におもねることはないが、小人は一部でおもねりあってひろく親しまない。』」と訳してゐますが、魚返善雄先生の『「論語」新訳』によると、「人物は閥をつくらず、俗物は閥をつくる。」と簡潔です。さすが魚返センセ、歯切れがいいです。

人は、一人でゐることに耐へられないといけないんだらうと、ぼくはいつも思ふのです。それほど人付き合ひのないぼくだつて、何人かでゐれば、自分の意に介さないことがあつても、問い直すやうなことはいたしません。つい肯いてしまふものです。それが、集団の中であつてみれば、なおさらでせう。特に、先輩や上司、目上の人の意向を察知して先走つてしまふ、さういふ人たちを何人も見てきました。それを、「信奉者」とでも言つたらいいのでせう。もう、自分の考へがどうのかうのではなく、我が師がどう思つてくれるか、その意に沿ふことで頭は一杯なんです。意見の違ふ人との対話が成り立つわけがありません。自分で考へたればこそ、考へ直したり、反省する余地があるわけで、そのためにも、自分は自分だといふ、一人でゐることに耐へなければならないのだと思ひます。

一人で学んで、考へ、判断して行動すること。その結果、同じ考への人々と行動をともにすることも大切です。が、この場合にも、「閥」を作らないやうにすること、そのために常に自分の感性を信じて生きることが大事だと思ふこの頃なのであります。

 

午後、雨が降りだしたので、本降りになる前に、いつもより早めに散歩に行きました。雨が大嫌いなラムですが、相変はらずクンクンはやみません。それでも、線路ぎはの駐車場につくやいなやウンチをしました。ビニール袋をひつくり返してすぐつかみ取りました。一番簡単な方法です。でも、それすらもしない飼ひ主が多く、我が家の門の前でさせて行く不届きものがをるのであります。現場をみつけたら、一発おみまひしてやろうと待ち構へるのですが、さういふときにかぎつて姿を見せないんですね。自分で自分の(飼犬の)不始末を始末すること、それが自由人の最低のマナーだとと思ふこの頃なのであります。

ラムは、認知症気味なんでせうか。時々、呼んでもきよとんとしてゐたり、散歩中、若い男の子が通りかかると、ついていつてしまふし、家の前まで帰つてきても素通りしてしまふことがあるんです。よほどしつかり視野に入れてゐないと心配です。

ところで、その散歩で発見したんです。写真を見てください。京成本線の距離表示です。九キロとあります。もちろん京成上野駅からの距離です。なんで注目したかといひますと、伊豆の生活で、買ひ物に出かけてゐた下田の町までが十二キロあつたのです。少しも遠いとは思ひませんでしたが、堀切菖蒲園駅から上野駅までよりも遠いなんて、考へてもみませんでしたね。距離感が違ふといふより、何か密度が違ふんでせう。

ですから、葛飾に来て、ガソリンがまつたく減らないのです。もつと乗らないとバッテリーがあがつてしまひます、と車屋さんに言はれてしまふほどです。なくしてしまいたいのですが、母がゐるし、弓道の弓の持ち運びにもこまるので、現在保留です。

 

今日の写真:気持ちよささうな寝姿。散歩中、ぼーつとしてゐるラム。距離表示。