二月十一日(火)癸丑(旧正月十二日) 曇天、一時風花舞ひ、寒くて凍える      

昨晩、どうしても寝られず、明け方までくづし字本をちらちらながめて過ごしました。それで、起きたのは、結局お昼。妻と母には、静かに寝かせていただいてありがたうございました、と陰ながら申し上げましたです。はい。

食後、遅くなつてしまひましたが、いつもの薬を飲みました。でも、それは心臓の薬ではないんです。さういへば、心臓のための薬は飲んできませんでしたね。毎日、決して飲み忘れてはならないのが、ワーファリンといふ、血液の凝固を抑制する薬です。金属製の人工弁を通過する血液が、そこで固まるのを防ぐために必要なんです。血栓ができたら、それで脳血栓などの血栓症を起こして、悪ければ即死、よくても不自由な生活を強ひられますからね、出かけるときには特に要注意なんです。

はじめて飲んだのが、手術後、ICUから病室に戻つてきてからです。うまく体になじみ、調整ができるまでは、飲む量を頻繁に変へて、そのたびに歯茎から出血するやら、すぐ内出血を起こして痣(あざ)ができたりしました。それからも、時々量を変へることがありましたが、なによりも、一日も欠かさず、忘れずに飲み続けてなければならないのです。それを、もう、三十七年間もやつてきました。

もちろん、忘れなければいいだけで、ぼくなんかあまり気にもせずに、朝食のデザートみたいに飲んできました。しんどいといつた気持ちはありませんでした。ただ、大変なのが、怪我です。横浜の教会にゐた、一九八七年頃から木工をはじめて、ナイフでよく指先を切りました。そして、一番ひどくて、今でも不自由してゐるのが、伊豆にゐた、二〇〇一年二月二十八日、左手中指の先端を電動丸ノコで切つてしまつたことです。、当時の診断書によると、「左中指不全切断」といふ怪我でした。

思ひ出すのは、ちやうどその時妻は東京に出かけてゐて、ぼくひとり。布を左手に巻き付けて、片手で車を運転して弓ヶ浜の湊病院へかけつけました。ビックリしたのは看護婦さんでした。「中村さん、血が止まらないよ!」と、おろおろと処置してくれた姿が忘れられません。また、手術も痛かつた! 腕のつけねを締め上げて、血流を止めるのですが、それがいつにじたかつたのです。三月十九日に退院するまでも、毎日拷問でした。薄皮ができるたびに、無理やり剥がすのです。同室の人たちは興味津々。他人ごとだと思つて、「痛さうだね?」なんて見てゐるんです。ああ、つらかつた。ですが、木工はやめられませんでした。

それで、今現在苦労してゐるのが、弓をにぎるときの、指使ひなんです。よく「手の内」といふでせう。あれは、弓を手のひらで包み込む微妙なにぎり方なんです。それが、中指の先端が一センチほど削られてしまつたもんですから、教への通りにはにぎれないんです。弓道をやるとわかつていたら、もつと注意するんだつたと後悔の日々を送つてゐるのであります。

あとひとつ、納豆がだめなんです。ワーファリンの効力をなくしてしまふんださうですが、ぼくがなによりも大好きな納豆、それを目の前で食べる家人の首を絞めてやりたくなります。まつたく。あ、それと、ある時、きれいだつた歯が、いちどにわるくなつたことです。きつと薬が原因でせうね。悔やむことは数へきれないです。

 

今日の写真:湊病院手術室。裏山で弓のお稽古。ラムの散歩姿と雪の上の足跡。