二月十二日(水)甲寅(旧正月十三日) 晴れ、冷える

たうとう判決がくだされました。かういふ時は、書くのが辛いです。けれど、これ書かないで、何の「日記」でせうか。それで、どういふ判決がくだされたかといふと、アブレーション手術をすることに決定したのであります。

いつもは、心臓外科の外来で診てもらふだけなのですが、今日は、その前に、循環器内科で、先日の“ホルター心電図”と“薬剤負荷心筋シンチグラフィ検査”の結果をふまへた診断が下されたのでありました。ただ一言、「やりませう!」とのことでした。さうすれば今よりずつと体が楽になりますといふ、だめ押しです。はい、と応へるしかありません。

次に、心臓外科の先生も、「ぼくもやつたはうがいいなと思ひます」といふご意見。もう逆らへません。ぼく自身は、このままでもいいかな、と少しは思つてゐたのですが、采(さい)は投げられてしまひました。

なぜ、ちよびつと躊躇するかといふと、同じこの病院の歯科に通つてゐたときに感じたことですが、学生の教材にされてゐるなと感じることが時々あつたんです。いへ、それは大学病院にかかつてゐる以上、決して問題視してゐるのではありません。むしろ喜んでわが身を提供する覚悟はできてゐますし、今までもどれだけ貢献してきたか、データがあればお示ししたいくらいです。はい。でも、歯の治療のときには、ぼくの歯をいぢつてゐる女子先生(一応は歯科医です?)が、隣で同じやうに治療してゐる先生(指導教授ですね!)に、いちいち聞くんです! おいおいと言ひたくなるでせう。

まあ、だからではないんですが、できるものなら医師が自信を持つて、一気にやつてほしい、とぼくは切に思ふわけなのであります。アブレーション手術は、心臓に管を入れる手術ですから、見習ひがこはごはやるとは思ひませんが、意識もある手術ですから、痛くはありませんが、なんだかゾクゾク鳥肌が立つてしまひます。

やはり、以前焼いた部分が生き返り、再度焼いてよけいな働きを阻止しなければならなくなつたといふことなのであります。まだ日程は決まりませんでした。が、四月頃とすると、前回が二〇一〇年四月十七日入院、十九日手術、二十一日退院でしたから、ちやうど四年目となります。なんだか、冬季オリンピックと同じですね。たしかに、手術そのものはたいしたことなかつたのですが:。

その入院してゐた時のことで思ひ出したことがあります。例の教授回診の時です。大学ですからね、生徒が十四、五人ぞろぞろと従つてきて、教授の説明を聞くわけです。そして、教授が、ぼくの心臓を指して、この人工弁は三十年モノだからよく心音を聞いておくやうにとおつしやられたのです。すると、みなみな真新しい白衣を着た若い男の子やら女の子やらが、右からも左からも手をさしのばして聴診器を裸の胸にあてるんです。どれだけ貢献してきたか、おわかりねがへたでせうか。

自棄のやんぱちにはなりませんでしたけれど、帰りはいつもの通り神保町へ直行です。岩波文庫の『百人一首一夕話』と『柳多留名句選』、現代教養文庫の『笑いの誕生』と『江戸川柳の謎解き』などを手に入れて、気持ちをごまかしごまかし、なだめながら帰つてまゐりました。そして、夜の散歩も無事果たして一息ついてゐるところです。もう寝ます。

 

今日の写真:やめようと思ひましたが、一枚だけ。放心亭に行くほどには余裕のないときに、時々ステーキを食べに訪ねる神保町のアルカサールといふお店。一応、許可を得て撮りました。