二月十三日(木)乙卯(旧正月十四日) 曇り      

今日は、池袋の東急ハンズに買ひ物に出かけました。妻に頼まれて、靴に取り付けられて、雪でも滑るのを防止する“アイス・スパイク”を買ふためです。先日の雪であぶない思ひをしたためですが、また明日にも降るやうな予報です。テレビで見たらしく、早速のご注文なのであります。出かけないわけにはいきませんでした。

それに、いや、これはないしよなんですが、西武百貨店で、“春の古本まつり”が今日から開催されるからでもあつたのです。どちらが主であるかはこのさい問ふのはやめたいと思ひます。どちらも、わが生涯において大切であることには変はりないからであります。

 久しぶりの池袋駅。にぎやかです。人をかき分け、ではない、人を避けながら、どうにか西武池袋本店の別館二階に到着してみると、まだ開店して三十分もしてゐないのに、かき分けないと本棚が見えないやうな状態でした。年寄りが多いです。もちろんぼく自身も入れてですが。さういへば、最近目立つのが、商売人ではないかと思はれる三十代前後の男たちです。値打ちのある絶版本などの本を安く手に入れて、それをどこかに高値で売るためなんでせうか? あきらかに、ぼくたち本好きの目ではないんです。ぼくなんか読みたいから買ふ者の目からすればこれは邪道です、はつきり言はせてもらひますです。

 また、昨日、神保町で、『柳多留名句選(上下)』を三百円で買つたんですが、ある店では千五百円で売つてゐるんです。実は、はじめのうち、この店は掘り出し物が多いと思つて喜んでゐたんですが、今じやぼくは嫌いですね、この店は。神学書や仏教書などの良質の本をたくさん置いてゐて、ぼくもお世話になつた巌松堂が閉店してしまつた後に入つた店なんです。最近ぢや、文庫本だつて千円、二千円がざら。なんでこんなに高くするのと、ぼくは探してゐた本を見つけるたびに、あきらめながらも、心のなかでは悪態をついてしまひます。

 求めてゐる人に、「安い、いいものを掘り出した」と思はせるところが、古本屋さん、とくに神保町の使命であるとぼくは言ひたいです。はい。それで、今日の掘り出し物ですが、まづ、昭和十九年発行の『徒歩旅行の歴史學』です。書名がいいでせう。ただ、〈自序〉に、「この大聖戦を戦ひ抜き、今まさに直面せる皇国の危機を打開し、神国日本をして万世の安きに置くために、:歩行訓練を、徒歩行脚を鼓吹し:」とあるやうに、歴史を教へる者すら、かういふ精神になつてしまふといふ時代的事実をかみしめながら読んでみようと買ひました。しかし、内容は面白さうなんです。徒歩旅行者の歴史学、昔の旅と今の旅、街道並木と一里塚、道祖神と道標、旅宿と立場茶屋、六十六部と順礼、納札・千社札、庚申待と庚申塔、月待と日待、地蔵・六地蔵、郷土名物と珍味。以上、目次のすべての項目です。なんてことはないのです。それでも、過激な〈自序〉を載せなければ出版されなかつたであらう時代だつたんですね。でも、繰り返し言ふやうに、決して昔ばなしではなくなりつつあるのです!

 それと、最近は手にしてゐなかつた、ヘンリー・デイヴィッド・ソローの『ソロー語録』です。山暮しをしてゐたときに、『森の生活』や『一市民の反抗』などを読みましたが、かうして「語録」としてまとまつてみると、言はんとしてゐることが、直接胸に飛び込んできます。たまたま開いて、買はうと思はしめられた言葉は以下の言葉でした。「たった一回の穏やかな雨で、草は緑の色合いを濃くする。同じようによりよい思想が流れ込むことで、僕らの視界がひらけてくるのだ」。「問題は、旅人がどこへ行ったかではない。彼がどこを見たかでもない。問題は、彼がどんな本物の経験をしたかが重要なのだ」。 〈本物の経験〉、我が歴史紀行をかくあらしめたいと思はざるを得ませんでした。 

“アイス・スパイク”も無事購入することができました。めでたしめでたし。

今日の写真:古本まつり会場とアイス・スパイク。