三月八日(土)戊寅(旧二月八日・上弦) 晴れ 

今日は、読書。いつものやうに横になつて読みはじめましたが、だんだんさうもしてゐられなくなり、たうとう起き上がつてしまひした。読みはじめたのは、例の北方謙三『杖下に死す』に触発された、森鴎外の『大鹽平八郎』ですが、いくつかの事が浮かび上がつてきて、調べざるを得なくなつたからなのです。

その一つは、「暴動の翌年天保九年八月二十一日の裁決によつて、磔に處せられた二十人は左の通りである」と記された中に、見覚えの名前があつたからなんです。茨田郡次と高橋九右衛門の二人です。そして、この両人について、「河内茨田郡門眞三番村百姓 支配役場へ自首す」とあります。さうです、二月廿五日の「日記」で触れた、門真市史資料集(第一号)『野口家文書 大塩事件関係史料』です。その本文、つまり古文書の表題は、「大坂元御組与力大塩平八郎市中乱妨當村郡次九右衛門掛り一件手續書留」で、そこに、郡次と九右衛門の名前が出てゐる通り、この二人に関する、いはば取り調べ調書だつたんです。

「一 天保八年酉二月十九日朝大坂天満出火与

  相見へ承合候処川崎組御屋敷邊与取沙汰ニ付 

 大塩平八郎者郡次九右衛門之先生ニ而: 」

とあり、二人が大塩平八郎に師事してゐたことが冒頭に出てきます。なにせ、当時の門真三番村は、「戸数八二軒、人数三八九人(男一九二人、女一九七人)。このような規模の村から、茨田郡次と高橋九右衛門の外にも、約五十人という事件関係者を出した」のですから、それほどに切実な飢饉の状況だつたんですね。 

古文書の勉強がてら、この先を読んでみなければなりません。それにしても、大塩平八郎が「暴動」を起こさなくてもすんだやうな政策が取れなかつたものなんでせうか。その点を確かめてみたいと思つて、中公文庫の『日本の歴史幕藩制の苦悶』を開いてみたんです。すると、意外な人物が、大塩平八郎と親交があつたことがわかりました(四二三頁)

大蔵永常といふ農学者です。農学者と陽明学者とは、学問的には相いれないところがあつたやうですが、「完全に一致していた」ことがあるんです。それは、民富=国益といふ考へです。この際ですので、本棚を探したところ、見つかりました。確かに購入した覚えがあつたんです。『広益国産考』(岩波文庫)です。ろくに読みもしないで積んどゐたんですが、改めて、その冒頭を開いてみて、ぼくは思はず唸つてしまひました。

「夫国を富ましむるの経済は、まづ下民を賑はし、而て後に領主の益となるべき事をはかる成るべし。第一成すは下にあり、教ふるは上にありて、定まれる作物の外に余分に得ることを教えさとしめば、一国潤ふべし。此教ふるといふは、桑を植ゑ養蚕の道を教え、あるひは楮を植ゑて紙を漉かしめ、云々:」とあり、「そのためには領主の利得だけを考えて下民を収奪する専売制などを廃止して、民富の形成を促進するような仁政をしくべきであるというのがその持論であった」のです。

大塩平八郎と親交があつたことがうなづけます。ですから、「このやうな平八郎(と大蔵永常)の封建的仁政観にたてば、大飢饉はまさしく天災ではなくて政災であった」。島原の乱にしても、佐倉惣五郎の行動にせよ、そして多くの一揆や暴動にしても、敵は天災でなくて領主をはじめとする支配者たちであつたと断言せざるを得ません。こんなにもはつきりしてゐることが、どうして今日の天災の被災者の方々に反映されないのでせうか。それは、ぼくの考へですが、少しわかつてきたことがあります。

 

今日の写真:今日のラム。『広益国産考』とその中の挿絵。