三月廿一日(金)辛卯(旧三月廿一日・春分) 晴れ、北風強く寒い 

門真市史資料集(第一号)『野口家文書 大塩事件関係史料』を読み通しました。服部さんお薦めの、北方謙三『杖下に死す』に触発され、二月下旬に読みはじめてからひと月もかかつてしまひました。その内容は、「大坂元御組与力大塩平八郎市中乱妨當村郡次九右衛門掛り一件手續書留」と「口上覚等(仮称)」の二文書からなつてゐます。前者は、まとまつた提出文書で、後に述べる十九人一人ひとりの取り調べ調書ですが、後者は、その都度奉行所と地方役所へ出された諸文書集です。

大塩平八郎の企てが、「前代未聞ニ而難盡筆紙候事」であつたことは、前にも書きましたが、読み終はつてみて改めて感じるのは、幕府・奉行所の追及の厳しさですね。騒乱に参加した者のみならず、大塩平八郎が施した「施行金(せぎやうきん)」を貰つた者全員が捕へられて「御吟味」を受けてゐるのです。まあ、「施行金」といつても、それは窮民への支援金であるとともに、騒乱への呼びかけ金でもあつたからなんです。

庄屋の野口家がおさめる、総人数三八九人の門真三番村からは、約五十人が関係者として捕へられましたが、騒乱に加はらなかつた者は「無罪または微罪者」として釈放されました。「有罪」とされたのは、十九人。そのうちの主犯格、といふか、大塩平八郎からの施行金の取次をし、さらに連判状に名をつらねた郡次と九右衛門の二人は、大塩平八郎者を先生としてゐた者たちであり、三月八日の「日記」に書きましたやうに、磔に處せられました。

しかし、罪状は本人に止まらず、家族親類の者にまで課せられてゐるのです。「郡次九右衛門親類血筋之分不残書附可差上旨被為仰付候ニ付」、「村預ケニ相成申候」。ただ、村預けといふのが、どのやうな状態におかれるのかはよくわかりません。が、そればかりではありません。気になつたのは、取り調べ中に十九人中九人が死んでるんです。例へば、「甚七義三月十七日病気届ケ仕候処養生不相叶同日落命仕候」とあるやうに、みな病気になり、養生(手当)したけれども「落命」・「相果候」と記されてゐます。ぼくは、非常に恐ろしくなりました。秘密裏に、激しい取り調べと拷問があつたのではないかと推測せざるをえません。これこそ「秘密保護法」の陰の恐ろしさなんです。おそらく、本人さへも何で自分が捕へられ、拷問されるのか、知らされないことが十二分に考へられるのです。

それにしても、いつも思ふことですが、こんなにも熱心に犯人捜しができるくらいなら、騒乱や暴動や一揆が起らないやうに、「まづ下民を賑はし」、豊かにすることができないんでせうか(参考:大蔵永常『広益国産考』)。

古文書の勉強になりましたが、内容的にも勉強になりました。特に、権力の恐ろしさを他人ごとでなく感じてしまひました。

 

今日は、ひるから、母と妻と三人で、立石にあるお寺にお墓参りに行つてきました。祖父と祖母と父と叔母のお墓です。風が強くて、お線香に火がなかなかつかなくてこまりました。母は、そこから歩いて散歩にでかけましたが、ぼくと妻はすぐ帰宅し、ラムと散歩に出かけました。

 また、夕方、新聞受けに、《広報 かつしか》が入つてゐました。一面に、「かつしかの魅力、再発見 郷土と天文の博物館 4・5(土)再オープン」とあるではありませんか。あまり関心のなかつた博物館でしたが、『関東戦乱―戦国を駆け抜けた葛西城』など多くの本を出してもゐるんです。これからは覘いてみようと思ひます。

 

今日の写真:お墓参り。けふの野良猫、寅。そして《広報 かつしか》。