四月廿七日(日)戊辰(旧三月廿八日) 晴れ 

妻にかはつて、ラムと、朝、昼、晩の三度散歩しました。オシッコがしたいのでせうが、その度ごとにせはしないこと。よたよたどころか、さつさとその歩き方の早いこと。つないでゐても、追ひかけるやうにしてついていかなくてはなりません。あひかはらず、クンクンは止まりませんが、結局帰宅するまでその速度はかはることがありませんでした。要するに、ぼくの足腰の回復訓練だと思ふしかありませんでした。

 

『野ざらし紀行』からはじめて、『鹿島詣』、そして、『笈の小文・更科紀行』と読み進んでまゐりまして、いよいよ、『奥の細道』までやつてきました。けれども、よく考へてみると、『奥の細道』を読みはじめるには、さまざまな環境が整つてゐないことに気がつきました。

もちろん、影印本といふか、「素龍清書本」といふ和綴じの『おくのほそ道』は手もとに用意はできてゐるんです。はじめの一、二頁なんかけつこうすらすら読めてしまふので、ちよいと恐ろしいくらいなんですが、どうもこのまま飛び込むのは、危険だなと思ふのであります。

なぜか? すべて自覚できてゐるわけではないんですが、第一に感じることは、ぼくはどうも俳諧のことがよくわかつてはゐないやうなのです。また、読んでもよく理解できないんです。ましてや、膨大な詩歌の伝統を身に着けてゐた当時の俳諧人たちの教養は、ぼくたちには計り知れないものがあると思ふのです。その教養を背景に、或は土台にして作られた歌にしろ俳句にしろ、膨大な解説なしにはわからない、さういふ世界なんですね、きつと、俳諧といふのは。それにたいして批判的に新風を吹き込んだ芭蕉さんにしてもです。

ただ、読まれた俳句なりを鑑賞する、或は気分が高じて俳句ができてしまつた、といふやうなことは、実はぼくにとつて、そんな大きな意味を持つてゐないんです。こんな事を告白したら、司馬遼太郎は好きぢやあないと言つて以来、また多くの敵を作つてしまひさうですが、自分でも困つたことだと思ふんですが、俳句が作れないコンプレックスが言はしめてゐるとご理解くださいませ。

ですから、芭蕉の俳句をそのまま読んだことはないんです。まあ、一応目は通しましたよ。けれどどこが面白いんだらうといふ程度で切りあげてしまひました。「紀行」ど抱き合はせにしてどうにかわかるていどなんです。すみません。

ましてや、『奥の細道』は、たんなる紀行文ではありません。「歌枕」の旅といつてもいい、いはば芭蕉の人生を賭した、といふか、その教養のすべてを駆使した創作なんですね。これを、ですから、くづし字のお勉強のためだけに読んでみるかといつたのでは、芭蕉さんどころか、わが日本の文学の伝統とその歴史を敵にまはすことになりかねないのであります。はい。

 そこで、せめて、身の丈にあつたところからかかる伝統に触れたいと思ひいたりまして、川柳をちよびつと齧りはじめたわけなんであります。いつの日か、必ずや、『奥の細道』を、ぼくも堂々と歩けるやうに教養を身につけたいと志してはみたいです。

 

それと、このたび、体調を崩して思つたことは、もつと肩と頭の力をぬいてかからないと、「中仙道を歩く」旅も、三條大橋まで持たないぞといふことです。そこで、川柳や俳句の大先輩でもある、小沢昭一オトウサンの「ちんたら旅」に少し学ばうかと思ひ、死蔵してあつた『東海道ちんたら旅』を出してきてみました。

 

今日の写真‥散歩風景。メロちやんとの出会ひとけふのラム。小沢昭一の川柳本と『東海道ちんたら旅』。