六月五日(木)丁未(旧五月八日) 曇天、時に雨。関東地方、梅雨に入る  

今日は寝てようと思つたのです。けれど、母が先日から、塀の蔦がのびたのが気になつて、気になつて、一度気になると顔を合はせるたびに、刈つてほしいといふのです。それで、朝食後、時間を一時間と決めて剪定しました。

まあ、自分の家の木々ですから、率先して手入れをしなければならないとは思ふんですけれど、住まひからしてどうも愛着がなくてこまります。愛着がないといふよりも、現在の家は、ぼくの心の中にイメージとして安定してゐないんです。ですから、蔦がどれほどのびようと、蔦がのびたよといふ、イメージを脅かす存在として考へられないんですね。

伊豆の山暮しでは、家の中はもちろん、工房、納屋、はたまた庭の木々から裏山までも心に思ひ描くことができました。その秩序といふか一つの世界が、イメージとしてぼくの心の秩序としてありました。いはば、ひとつの必然的世界を形づくつてゐたんです。それで、毎日手をかけざるを得ませんでしたが、それはまた、イメージを日々新たに構築する作業でもありました。楽しくて楽しくて、毎日毎日大汗をかき、からだがぎしぎし痛むのにもめげずはげむことができました。

例へば、きょうはこれこれのことをしようとイメージしたことが、その日の努力によつて形となるんです。ぼくは神さまではありませんが、思つたことが形になるといふことがどんなに快感であることか! 生きてゐるとは、イメージを築いていくことであり、そのイメージに形を与へること、そのことに尽きるとぼくは思つてしまひます。はい。

振り返つてみますと、それがどれだけぼくたちの生活と心のありやうに秩序と安定と静けさを与へてくれてゐたか計り知れないものがあります。それにひきかへ、現在落ち着かないのは、また、手をかけようとしてからだが動かないのは、現在の家にイメージがもてないからであり、ぼくたちの世界としての家に住んでゐないからなんです。かといつて、これから、新たな「家(の秩序)」構築に向かふには課題が多すぎるのが現状なんです。

 

あ、さうです。夕べ、妻が飛び込んできて、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」は、宮沢賢治が作つたんぢやないみたいよ、と言ふのです。突然に何を言つてゐるのかなと思ひましたが、話をきいてよくわかりました。

アーサー・ビナード『亜米利加ニモ負ケズ』(日本経済新聞出版社)によるとなんです。「雨ニモマケズ」は、アメリカの郵便局のスローガンとそつくりであり、さらにさかのぼると、ヘロドトスの『歴史』にも同じやうな記述があるさうなんです。それを宮沢賢治が見たかしてメモしておいた文が、後に発見され、整理されて世に出されたんではなからうかといふのです。さもありなんと思ひました。

 

今日のラムはまた食事を食べませんでした。昨日はどうにか食べたのに、好き嫌いがあるのかも知れませんが・・。

 

今日の写真:玄関先の塀の蔦(剪定前)。あつちこつち好きなところで横になるラム。