六月十一日(水)癸丑(旧五月十四日) 曇天のち雨降つたりやんだり

今朝も慈恵大学病院に通院し、昨日装着したホルター心電図を取り外していただきました。が、指定されたその時間に通院するには、ちやうどラッシュアワーの電車に乗らなくてはなりませんでした。特に今朝の千代田線は混んだので、綾瀬駅から大手町駅まで、まともに立つてはゐられませんでした。いや、疲れるもんです。これを毎日経験されてをられる方には頭がさがりますが、「病人」にはこたへます。

文句が言ひたいのは、病院の検査の係の方へです。何で病人がわざわざラッシュアワーの電車に乗らなければならないやうな時間に通院させるのかです! 定例の通院の場合はこちらが時間を選べますが、それにしてもあと一時間くらゐ遅らすとかの配慮が欲しいと思ひました。はい。

それで、今日の“史策”ですが、勝海舟のお墓参りにまゐりました。都営三田線の三田駅で都営浅草線に乗り換へ、五反田駅では池上線に乗つて洗足池駅まで行きました。あの西島三重子さんの「池上線」で有名な電車です。はじめて洗足池駅に降りました。中原街道をへだてて洗足池が見わたせます。大きな池です。

案内図にしたがつて歩きました。図書館があり、その向ひには、海舟の終の棲家「洗足軒」の案内板。それによると、大森第六中学校の敷地が「洗足軒」だつたやうです。すると広大な土地だつたやうですね。道をへだてて、瀟洒な日本家屋かなと思つたら、境内に「日蓮上人袈裟掛けの松」がある御松庵妙福寺でした。弘安五年九月(一二八二年)、身延山から常陸の国への途中、「千束池」に立ち寄つて休息した上人が袈裟を松に掛け、足を洗つたので、「洗足池」と呼ぶやうになつたといふのです。さういへば、ここの住所は、南千束なんです。

勝海舟のお墓はすぐわかりました。妻の民子さんのお墓となかよく並んでゐます。けれども、民子さんの墓は、はじめは民子さんの遺言で、青山墓地にあつたやうなんです。長男の小鹿と同じところを希望したからのやうです。夫より子をとつたんですね? でも、小吉夫婦にしても、海舟親子にしても、家族みなお墓(お寺といふべきか?)はばらばらなんですね。ちよつと驚きです。

そのわきの神社風の敷地の中に、西郷隆盛の「留魂詩碑」と「留魂祠」がありました。「留魂詩碑」は、明治十年の西南戦役によつて逝去された西郷南洲(隆盛)を惜しんだ勝海舟が、追慕のために南洲先生の漢詩を建碑され、さらに明治十六年、「留魂祠」が建立されたといふのですが、このはうは、はじめ、どういふわけか、葛飾区東四つ木の薬妙寺境内に建てられたもののやうです。

帰りは、旗の台駅と大岡山駅で乗り換へ、直通の三田線で神保町古本屋街に立ち寄りました。今日の収穫は、岡田喜秋『旅人・曾良と芭蕉』だけでした。

 

今日の写真:勝海舟に関する切り抜きと、洗足池の図。勝海舟と妻民子のお墓。西郷隆盛の「留魂詩碑」と「留魂祠」(これはもともとは、葛飾区東四つ木一―五―九薬妙寺境内にあつたのを、大正二年に移したといふんですが、それはきつと、荒川放水路開削工事にともなふ、寺院の移転の際ではないかと推察します)。今日、雨の中、町内会のバス旅行があり、帰宅後、母と同行した濱口さんのおばさんをお招きしての夕食(後)。そしてけふのラム(食べもしない、水はわずかになめるのみ、そのわりにはまだ重たいラム)。