六月廿日(金)壬戌(旧五月二十三日・下弦) 晴れ

ラムちやん、今朝も、抱いて玄關先まで連れていきましたが、しやがみ込むだけで、オシッコはしませんでした。そこにちやうど、御園生さんのモモちやんが来て、別れのあいさつをしてくれました。

いつたん家に入つたと思つたとたん、こんどは自分で歩いて行かうとするのです。歩きました。オシッコをしたあと、そばを野良猫が歩いて行くのをじつと見てゐました。

 

午前中、「中仙道紀行十四」に没頭、「遠近の里」についてまとめました。

 

午後二時、日比谷線築地驛に集合、今日は《史策會》第三回例會です。參加者は、案内の泉さんはじめ、森さんと日野さんとぼくの四人でした。

今回は、〈築地・明石町小さな町歩き〉の三回目と題し、以前訪ねたところと若干重複するところもありましたが、といふのは、そこがちやうど今回の通り道沿ひでもあつたからですが、例に違はず有意義な探訪でした。

以下、訪ねたところを列擧します。

まづ、「かちどき橋資料館」を訪ねました。そこで、ビデオを見てその歴史を學びました。それから、實際に勝鬨橋の中央の開閉した場所まで歩きましたが、自動車が通るたびに搖れること搖れること、しかもすき間から下の川面が見えるので、氣の弱い方はよしたはうがいいかも知れません。昔、ここを都電が走つてゐたかと思ふと感慨無量です。

次は、右岸の隅田川テラスをさかのぼり、聖路加ガーデンのわきを通り抜けて、割烹治作の前にでました。なんと、ここが「運上所跡」だつたのです。明治元年に築地居留地内に設置された東京税關の前身です。

續いて、前回訪ねた、「月島の渡し跡」と「電信創業の地」の碑と「シーボルトの胸像」をかすめて、「タイムドーム明石」といふ名の、中央區立郷土天文館を訪ねました。六階で開催中の“中央區にやつてきた外國文化”展を見ました。壁いつぱいに、大きく引き伸ばされた、南は浜松町あたりから、北は日本橋あたりの空中寫眞が壯觀でした。明治三十七年頃撮つた寫眞だといふことです。館内は撮影禁止で、寫せなかつたのが殘念でしたが、一見の價値ありですね。

以下、歩きながら、ながめやりながら、復習がてら、「トイスラー記念館」、「築地居留地跡」、「關東學院の源流 東京中學院發祥地」碑(校訓「人になれ、奉仕せよ」が新鮮ですね!)、「雙葉學園發祥の地」碑を確認し、さらに鐵砲洲通りを、湊三丁目から二丁目、一丁目へとたどり、鐵砲洲稻荷神社のさきの交差點を右折、「南高橋」に到着しました。レトロないい感じの橋です。昭和七年に、關東大震災で被害にあつた両國橋の中央部分を利用して作られた、明治期の鐵骨橋梁としてたいへん貴重な橋のやうです。これも必見ですね! 

さらに、橋を渡り、リバー通りを右に曲がつて、堤防に上がりました。いやァ、眺めがいいです。この位置から隅田川を見るのははじめてですね。碇(いかり)を模した、「江戸湊記念の碑」がありました。延寶七年(一六七九年)以来、江戸湊の出入口として、商船が荷揚げをしたり荷を積みかへたりした所のやうです。いはれてみれば、確かに適切な場所です。

その先には、「靈岸島檢潮所・量水標跡」が、その奇怪な姿を川中に突き出すやうに存在してゐました。すぐ左手には中央大橋がかかつてゐますが、川幅が廣く、船も行き交ひ、向ひには佃島が横たはつて居ます。日がな一日眺めてゐたい風景です。 

さうもしてゐられず、泉お姉さまの引率で、再び鐵砲洲通りにもどり、交番の角から數軒先の「湊湯」につれていかれました。これはこれはです。四五〇圓、いい湯でした。もう次は生ビールの乾杯しかありません。隅田川テラスに出て、いい風にあたりながら、對岸の佃の渡しとか、三軒の佃煮屋さんやらを眺めやりながら、佃大橋をこぐり、またまた聖路加ガーデンにやつてきました。あとはかつて識つたところ、「シーボルトの胸像」のあるあかつき公園のへりを通り抜けて、やつてきました、“はじめ鮮魚店”です。

いつもの二階にあがり、まづはみなさんと乾杯し、をねぎらひあひました。出された刺身を美味しくいただきました。しかし、ぼくには、歩いて、風呂に入つて、飮んだんですから、眠たくなる條件がそろつてしまひました。またうとうとして、みなさんに迷惑をかけてしまひました。

少し早目に解散し、歸路につきました。途中で、日野さんから、實家の宮崎で、この四月に、博物館で「西郷札」の現物を見てきたといふ話には興味がわきました!

 

今日の寫眞:今朝のラム。モモちやんとツーショット。「史策會」第三回例會。