七月四日(金)丙子(舊六月八日) 曇天、ときどき小雨

昨日はあたふたしました。せつかく送つた『中仙道紀行』が相手に届かなかつたんです。そのお一人とメールのやりとりをしてゐてわかつたことだつたんですけれど、でなければ屆いてゐないといふこともわからずじまひでした。

その原因の一つは、今回はじめて、『中仙道紀行』をPDF形式といふので發信したことがあつたと思ひます。文書を開いた方が、それに手を加へるのを不可能にする方法なんですけれど、やはり送信ミスをおかしてしまつたやうです。

もう一つは、あとで、四回に分けて送つたら成功したので、原因としては、一度にたくさんの方に送つたからではないかと思はれます。でも、これは、以前からおこなつてゐたことで、今さら支障をきたすとは考へられないんですけれど、最近、パソコンがどういふわけかバージョンアップされてしまひ、かへつて使ひにくくなつたことが考へられるのです。

これは、大變困つたことです。何やら宣傳のページ(?)が增えたやうですし、得體の知れないものに操作されてゐるやうな氣もします。洗腦されないやうに心したいと思ひます。

 

今朝、母は、弟と妹とともに、一泊二日の“みちのくの旅”に出かけました。どこかの會社のツアーのやうです。

 

今日は、ぼくは、夕方、西宮にゐる神田健次君と銀座でデート(?)でした。彼が東京に來るときには連絡があるので、いつも會ふことにしてゐます。まあ、かれは關學神學部で敎へてゐるし、ぼくみたいな氣ままな人間を相手にするのもいいのでせう。とりとめない話がまたいいんです。

でも、今日の彼の目的は、敎文館の九階のウェンライトホールと名のついた、そのウェンライトさんを調べることと、ついでにそこで開催されてゐる、《村岡花子 出会いとはじまりの教文館》展を見ることでした。いや、ぼくもつきあつて見てしまひましたよ。NHKの朝の連續テレビ小説『花子とアン』の主人公、村岡花子に關する展覧會会なんです。ぼくは、家族とともにちらりちらりと見る程度ですが、その花子さんと敎文館とが深い關係があつたなんてちつとも知りませんでした。

敎文館は、神學書をもとめるために、學生時代から通ひなれたる本屋さんであり、出版社でもあるのですが、その創業は一八八五年(明治十八年)なんです。その敎文館に花子が勤めたのですね。パンフレットによると・・。

「世代を超えて多くの人々に読まれている『赤毛のアン』を、日本ではじめて翻訳・紹介

したのが村岡花子でした。

花子は戦前に教文館の編集者として、女性と子どものための出版の仕事をしていました。

戦争へと向かう不穏な時世に、同僚のカナダ人宣教師ショーから友情の記念として贈ら

れた一冊の本が“Anne of Greenn Gables”だったのです。

初めての本『爐(ろへん)』の出版、そして夫となった村岡三との出会いの舞台となったの

も教文館でした」

要するに、テレビでは、キリスト敎に關することはほとんど拔きにして、いはば換骨奪胎された話になつてゐるやうなんです。村岡三の父、平吉が、福音印刷株式會社の創業者で、「バイブルの村岡」と呼ばれてゐたなんて、テレビで觸れてゐたでせうか? また編集長が、本當はウェンライトさんだつたことも隠されてゐますね? まあ、單なる物語ですから、歴史的に違ふとかどうだかうだいつても仕方ないことですけれどね。

この展覧會を見たい方は、七月十四日までですからお忘れなく。あ、さうです、入場料が七〇〇圓かかるんでした。もちろんぼくは神田君に出させました、否、出してもらひましたです。はい。

それから、一緒に、天龍で生ビールで乾杯し、餃子と焼きそばを食べて別れました。

 

今日の寫眞:銀座敎文館九階、ウェンライトホール入口にて。敎文館入口。天龍で乾杯。

 

補足:少し早く出て、高圓寺の西部古書會館に寄りました。掘り出し物はありませんでした。