八月四日(月)丁未(舊七月九日・上弦) 晴れ、蒸し暑い

 

『歴史紀行二十五 東京散策紀行(前編)』に引き續いて、『歴史紀行二十五 東京散策紀行(後編)』を作成、ほぼ仕上がりました。ただ、前編もさうでしたが、後編も、寫眞は各ページに下にならべてしまひました。細かくアレンジしはじめると、とてつもなく手間と時間がかかるためです。

その代り、寫眞の「角度補正」について、ウインドウ8の“Photoshop Elements 11”が使いづらくて放つとゐたんですが、このたび、參考書を手元に、惡戰苦闘の末に使へるやうになりました。ウインドウズ7よりは煩瑣で、めんどうなのですが、どうにか使へさうです。 

 

武田信玄、讀み進んでゐます。中仙道、とくに諏訪大社と關係があるのは、生涯の前半のやうなんですが、一應最後までみないとわかりませんね。

それとともにますます面白いのは、『史料綜覽』です。信玄が活躍してゐるその同じ時代、長尾景虎(上杉謙信)はもちろん、小田原の北條氏康や駿河の今川義元も登場します。そして、その義元を滅ぼした織田信長のその場面はかうなつてゐます。「永禄三年(一五六〇年)五月十九日 織田信長、今川義元ヲ尾張田樂狹間ニ襲撃シテ、之ヲ斬ル」とあります。いはゆる桶狹間の戰ひですね。ぞくぞくしてしまひます!

また、松平元康、のちの德川家康も出てきます。例へば、「松平元康、三河岡崎ニ於ケル公事等ニ就キテノ法度ヲ定ム」。

この本は、要するに、ほぼ毎日の日記といつてもいいやうな、公の記なんです。記述は、諸史料から直接とつてゐるので、飾り氣はありませんが、ずんずんと胸に迫つてくるものがあるんです。はい。 

 

“夜のピクニック”、今夜はまゐりました。道に迷つてしまつたのです。

往きはよかつたのです。四つ木方面へ、堀切敎會を過ぎ、堀切總合齋場の裏道を通つて、平和橋通りに出たら、“ぱぱす”の信號を渡り、堤防に向かつて歩きました。“ぱぱす“では、九十八圓のアクエリアスを買ひ込み、飮みながら、はじめての暗い道をたどりました。途中に、堀切中學校がありました。この道は、右側は堀切で、左側は四つ木になる境のやうです。

地圖で確認した通り、ぶつかつた堤防を上ると、綾瀨川に橋がかかつてゐました。「ほりきりひなんきょう」といふ名の橋です。災害が起こつた場合、この橋を渡つて河川敷に避難するやうにと作られた橋なんですね。たしかに頑丈さうでした。

今晩は風が強く、とても氣持ちがよかつたのです。もちろん景色も最高。しばらく休んでから、歸りは堤防を北に向かひ、はじめてみて驚いた、リーゼントスタイルの建物の“堀切菖蒲水門”を渡つて、先回とは逆に下りて歸路につきました。

ところがです、すぐそばにあるはづの堀切菖蒲園が現れてこないのです。區役所でもらつた地圖を見ながら歩いたんですが、自分たちが今どこにゐるかがわからないのです。そもそも、區役所の地圖は、小さな縮尺の上、公共の施設しか記されてゐないんです。“ぱぱす”もコンビニものつてゐないんです。しかも、この、堀切二丁目といふのはまるで迷路だつたんです。

ぼくの住んでゐる五丁目だつて、人によつては迷路といふかも知れません。しかし、東西の道はほとんどが直線です。南北が入り組んでゐますから、まあ、阿弥陀籤状態といつてもいいでせう。しかし、二丁目は、正眞正銘の迷路です。横くねくねと入り組んでゐて、網の目のやうで、方向感覺がなくなるんです。通りがかりの若者に、驛への道をきいたら、口ごもつてゐましたもんね! さう、敎へやうがないんです。ああ、疲れました。

忘れないうちに、家を出たのが八時ちやうど、歸宅したのが、九時一五分、歩數は、六三五〇歩でした。すぐシャワーを浴びて、氷を食べ、エアコンをつけた部屋でやつとおちつきました。おしまひ。 

 

今日の寫眞:綾瀨川にかかる「ほりきりひなんきょう」。夜景二枚。先回とは逆に、後ろから見たリーゼントスタイルの水門。

 



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