八月九日(土)壬子(舊七月十四日) 曇り、午後おそくから時々雨

 

『歴史紀行二十六 中仙道を歩く(十三)』(坂本宿~輕井澤宿)のワード版の、册子版への編集がやうやく仕上がりました。と言つてしまへば簡單なんですが、寫眞の挿入などあれこれ考へながらやつてゐて、今さらながら大變な峠越えだつたなと感慨にふけつてしまひました。

ちよこちよこと歴史のことなどにも觸れて、いかにも知つたかぶりをしてゐますが、いやあ、歴史といふのは、立ちはだかる壁か斷崖のやうなもので、頑として存在してるんです。それをあたかも高みから見下すやうになんて、ちよいとでも歴史に出會つた者にはたうていできるもんぢやあありません。そんなことが感じられるやうな峠越えでした。

これからも、もつと勉強しながら、歴史といふ存在の足元にすり寄るくらいのことはしたいと考へてゐます。何かがもつと聞こえてくるかも知れません。

 

昨日買ひ求めて送つた本が屆きました。忘れてましたが、『史料纂集 山科家禮記 第一』も入つてゐました。これも貴重な史料ですが、この本は、この「史料纂集」(續群書類從完成會)出版のその第一册めだつたんです。それで、その出版を祝して、「会報」に何人かの方がよろこびを語つてゐるんです。扇谷正造さんはかう書いてゐます。

  「このごろ、ひそかに憂えられるのは、文運盛んにして文化衰えんか、という事です。おびただしい数の雑誌や本が、市場に出ている。しかし、真に、国民の文化的遺産たるべき根本資料の纂集に対し、目を向けられる事が、はなはだ、すくない。文運の進歩と発達とは、過去の遺産に対する正しい評価と継承があつてこそ、可能である」

  これは、昭和四十二年十二月の出版ですから、四十七年、かれこれ五十年前のお言葉ですが、世間の事態はまつたく變はつてはゐませんね。過去の遺産に腰を据えてこそ、實質的な第一歩がはじまるのでせうに、世界遺産がどうのかうのといつて騒いでも、それは一時的なものでしかないでせう。そもそも、過去の遺産といふのは歴史のことですよ。ひと巡りしてわかつてしまへるものではありません。

  『山科家禮記』といふのは、山科家に使へた雑掌が記した、應永十九年(一四一二年)から明應元年(一四九二年)までの日記です。「山科家の雑掌として、同家の所領経営を通して山科七郷の惣村や供御人と接し、当時の農民・商工業者の姿が記されてゐる。また、直面した応仁・文明の乱やその後の武家の権力争い、土一揆の実相が描かれ、並の公家日記には見られない貴重な史料である」。また、「立花の記事は花道史の貴重な史料」ともいはれてゐます。

  まあ、ぼくが手に入れたのは、四卷あるうちの一卷ですけどね。いづれ必要な時には續きを求めたいと思ひます。 

 

今日の寫眞:二階のベランダへの入口をふさいでしまつたので、最近では臺所の裏に出没する野良猫の“寅”。それでゐて、なかなか用心深い。

 

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