八月十七日(日)庚申(舊七月廿二日・下弦) 晴れ

 

子母澤寛著『勝海舟(四)』が讀み終はりました。戊辰戰爭勃發の場面で途切れましたが、これによると、どうし樣もない幕府のありさまが赤裸々に描かれてゐます。

それにしても、勝海舟といふ人は大きな人物だつたのだなあと再認識いたしました。もし、勝海舟なければ、戊辰戰爭後の日本の國はどうなつてゐたでせうか。思ふだにぞつといたします。なぜなら、官軍となつた西軍・薩長軍と交渉できるのは勝海舟をのぞいて誰一人ゐなかつたからです。

そもそも、この時、海舟は、「どうせ、おいらなんざあ除け者だが、こう御家が左前になって来れあ、除け者だけに気はらくだわさ」と、自嘲してしまふやうな、謹慎蟄居中の身だつたんです。幕閣からはよほど疎まれてゐたわけなんですね。

そこに使ひがやつて來ます。海舟の『幕末日記』を引用します。 

 

慶應戊辰正月十一日 開陽艦、品海(品川沖)え錨を投ず。使ありて、払暁、浜海軍所え出張、御東帰(將軍慶喜御帰着)之事。初て伏見之転末を聞く。會津公、桑名公、ともに御供中にあり。其詳説を問はむとすれども、諸官唯青色、互に目を以てし、敢て口を開らく者無し。板倉閣老え附て、其荒增(あらまし)を聞くことをえたり。 

 

そのすぐあと、大坂城を抜け出し、開陽丸で逃げ歸つてきた將軍慶喜にひとり呼ばれてのことです。海舟が、「上様、何故に、御帰東遊ばされました。何故に、大坂城に御籠居遊ばされませぬか。何故に、この不体裁にて、御帰り遊ばされましたか」と詰め寄ると、かへつてきたお言葉は、「安房、最早、致し方はない。この上は、頼るは、その方只一人である。只一人であるぞ。安房、頼む。薩藩の西郷、大久保に会して、然るべく掛合い致しくれよ」、との切々たる依賴でした。

そこで、海舟は腹をくくるのですが、さうでせう、海舟は、日ごろから、「味方(幕閣)に敵は沢山あったが、敵(薩長)中に敵なしですからな」と言はれてゐたのです。その結果はご存知の通りです。

「おい、勝麟太郎はな、幕臣だ。が、それより先にこの日本国の臣だよ」、と啖呵の切れる海舟です。半藤一利さんは勝海舟を、かう評してゐます。「幕末にはずいぶんいろんな人が出てきますが、自分の藩がどうのといった意識や利害損得を超越して、日本国ということを大局的に見据えてきちんと事にあたったのは勝一人だったと私は思っています」。

まあ、それで、ちよつと『勝海舟』はお休みして、中仙道にそなへて、島崎藤村の『夜明け前』を、こんどはきちんと讀んでみようと思つてゐます。 

 

“夜のピクニック”、今夜は、以前疑問に思つた、古隅田川を探してみました。

八時二五分に家を出て、例の綾瀨川にかかる水戸橋をめざしました。その少し手前に小菅交番がありますが、その先わづかのところの右手に、前回偶然に古隅田川に遭遇したのでした。そのときは、下流に向かつてしまひましたが、古隅田川を、あ、さうです、これは、「ふるすみだがは」と呼ぶやうなんですが、今夜はそれを遡つてみたのです。

いや、葛飾區役所からいただいた地圖によれば、常磐線を越えて、足立區のはうまで續いてゐるやうなんです。歩きはじめて、これは水路沿のいい遊歩道だと思ひました。橋がいくつもかかつてゐました。それが、終ひには、川といふか、水路がなくなつて、道路の歩道わきに、欄干もなくただ親柱のみが建つてゐたのが印象的でした。

鵜之森橋から遡つて行くと、陸前橋、古川橋、白鷺橋、この川向ふには、たまに訪ねる華屋与兵衛がネオンも明るく建つてゐました。次は、元隅田橋、ここは、「東京法務局城北出張所」の入口に當たります。さらに、入圦(いりいり?)橋、この橋は、すでに橋の機能をなくしてゐます。境三橋、南新橋、この間に、河添公園、藤の花が咲くころに來てみたい公園です。境四橋、ここで常磐線をくぐり、そこからは水路が見えなくなりました。「東京都立葛飾ろう学校」の前はただの道路。それでも、宿添橋、西隅田橋、墨田橋の親柱は健在でした。以上で跡形もなく住宅地の中に消えてしまつてゐました。

ちやうど、以前、葛飾學園を訪ねた近くなので、同じ道を、眞つ直ぐに西龜有から、堀切八丁目、七丁目、六丁目、そして我が五丁目に、いささかくたびれながらも到着いたしました。一〇時一〇分、八〇七〇歩でした。 

 

ちよつと調べたことを付け加へますと、この古隅田川は、かつては大河で、舟の行き來もさかんだつたやうなのです。利根川から分かれ、下總國と武藏國の境界を示す川でもあつたのです。古地圖によると、隅田川に注がれてゐたんですね。それが、中川の灌漑事業によつて、水量を失つてしまつたといふわけのやうです。現在は、曳舟川から取水した水が、他の多くの水路とともに配られてゐるんです。

ちなみに、華屋与兵衛のところで、曲がつてしまつてゐますが、以前は、眞北に綾瀨驛までのび、少し東行して南下し、法務局出張所のある元隅田橋のところを流れてゐました。つまり、今日の葛飾區と足立區の境界に沿つてゐたわけです(地圖参照)。以上でした。 

 

今日の寫眞:古隅田川と橋の親柱。それと參考地圖。

 






コメント: 0