八月廿日(水)癸亥(舊七月廿五日) 晴れ

 

昨日、『夜明け前』が讀めなかつたのは、實は、もう一册、林望著『日本語の磨きかた』を持つていつて、ついつい面白くて讀み通してしまつたからなんです。特に後半の、古文についての言及は、日ごろぼくが思つてゐることでもあつたので、溜飲が下がる思ひでした。

〈古文を入れると本が売れない〉の項では、「戦後の軽はずみな国語改革というものが、一面においては明らかに伝統の破壊、文化の連続性の阻害を生んだことは間違いない。」と言ひ、また、〈旧仮名づかいは正仮名づかい〉では、「一般的には『旧仮名づかい』といいますが、私としては『正仮名づかい』といいたい」として、例へば、「言う」の活用などは、「言ふ」の旧仮名づかいのはうがきれいにすつきりと活用すると、だから「正仮名づかい」といふわけです。ためしに、それぞれ活用してみるとよくわかります。

そして、ぼくが最も共感したのは、〈日本人の懷かしさの源泉〉の項です。少し長いのですが、引用いたします。

「われわれの国に万葉集から脈々と受け継がれる文学の宝庫・鉱脈があるということは、世界史的に見ても類まれなすばらしいことなんです。

にもかかわらず、浅はかな文部行政と、その手先の御用学者どもの意見によって、いまの子どもたちなり若い人たちが古文に親しもうという気すら起こらなくなってきているということは、日本人が自分たちの文化的アイデンティティーを喪失しつつあることを意味しています。

そこのところを考えると、きつい言い方になるけど、文部官僚並びにその御用学者どもの罪は、まさに万死に値する。それこそ首でもくくって死んで貰いたい。

千二百年というもの続いてきた文学的な伝統、それこそが、われわれの知恵なり感情なり、日本人としての心の「懷かしさ」の源泉です」

いや、ちつとも「きつい言い方」ではありません。ぼくは、かねてから、市中引き回しのうへ、打ち首獄門さらし首の刑に處するべきだと思つてゐましたから・・。

さらに、リンボウ先生曰く、「外国語の勉強すなわち国際化だなんて、実に薄っぺらい考えで、外国語ばかり強調して、肝心の古文をないがしろにしている国民とは、なんだろう。それは亡国の民なんじゃないか、と非常なる危機感を感じているのは、おそらく私だけではないはずです」。その通りです。ぼくも共感してゐますです。はい。

極め付けはかうです。「幼稚園児や小学校で英語を教えるなんていうのは、まったく必要ないことです。『日本人に日本の古典文学を教えないで夷(いてき)のことばから先に教えてどうするんだ!』、愛国者である私は、常にそう思っています。・・・。ことばというのは、歴史なんです」。

いやあ、リンボウ先生、いきなりファンになつてしまひましたよ! 一〇八圓で買つた本にしては、望外の収穫でした。 

 

そして、實は、もう一つ、リンボウ先生が好きになつた理由があります。それは、「正岡子規の罪」を追及してゐることです。ぼくはかねてからさう思つてゐたんですが、子規の罪を問ふところまで言及してゐるのを知るのは林望氏が初めてでした。

「正岡子規は近代短歌を作る意味では大きな功績もあったかもしれないけれども、一方では歌わない歌を前提ににしたという、大きな過ちを教えた罪もあったことを、ぜひ知っておいてほしいと思います。・・・。『古今集』なんかを、近代和歌的な物差しで読んだって、それはわからないはずです。そういうスクールにみな統一してしまったという、その意味で正岡子規の罪は深いのです」(「『読む』『聴く』そして『時間』」〔ロバート・キャンベル編『読むことの力』〈講談社選書メチエ〉所収〕)。

子規が犯した過ちについてはよくわかつてゐなかつたので、これを讀んですつきりしました。それで、どうして子規が嫌いになつたか、それは次の文章を讀んでくだされば納得していただけると思ひます。

「歌や句は町人もよんだ。漢詩は武士にかぎったが、これも教育の普及によって町人もよむようになった。樋口一葉は塾を開いて歌と習字を教えてくらしを立てるつもりだった。・・・。一葉は歌を何百何千と殘してゐるがそれについて論じたのを見ないのは、子規のせいである。子規は「日本」紙上で十回にわたり古今集をつまらぬ歌集だとほとんど唾棄して、日本中の歌よみはその剣幕を恐れて從ったから、わが国古来の「風流」は失われたのである。・・・。昔の女は芸術家になろうとして歌をよんだのではない。子規は古今は字句の遊戯にすぎないというが、字句の遊戯のどこがいけないのだろう。歌枕をたずねるのがどこがいけないのだろう。・・・。俳諧もまたたしなみだったが、これも子規以来芸術になった」(山本夏彦著『完本 文語文』文春文庫)。

ぼくは、このことを取り上げて、ほんとうは、『歴史紀行十三 中仙道を歩く(三)』の中で書きたかつたんですけれど、文脈上割愛した經緯があるので、ここで存分に言はせていただきます。「中仙道(三)蕨宿~大宮宿」では、地藏信仰について述べたくだりで、小泉八雲の『ある女の日記』について觸れたのでした。その、實に不幸な短い生涯を終へた「ある女」の日記を見ると、實によく歌を詠んでゐるんです。明治の終りの頃の話です。歌をうたふことはたしなみだつたんですね。誰も芸術家になりたくてうたつてゐたんぢやあないわけです。悲しい時には悲しいと、樂しい時には樂しいと歌でうたへたなんて素晴らしいたしなみではないですか。それを、芸術でないものはやめてしまへとでも言ふ子規のその傲慢さには、歌を解さないぼくが言ふのも烏滸がましいのですが、腹が立つてしかたなかつたです。

このやうな傳統が失はれたことの責任が正岡子規にあつたと言はざるを得ませんね。つまり、自分がしてゐることが周圍に、そして後世に、いや日本のよき傳統に對して、どんな影響がおよぶのかを考へないですることの罪悪は、司馬遼太郎もさうでしたが、社會的に力ある者は特にきびしく問はれるべきだとぼくは思ふのであります。いへ、あの、あまり存分に言へないで、すみません。 

 

ところで、明日は中仙道を歩く、和田宿から下諏訪宿までの和田峠越えです。碓氷峠よりも高い峠です。今日は豫習をしながらもゆつくり體を休めました。 

 

今日の寫眞:愛しのラムちやん、その動作の一つひとつが愛らしかつた。

 

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