八月廿七日(水)庚午(舊八月三日 曇天、一時小雨

 

今日はなんだか疲れがでて、一日横になつてゐました。もちろんただでは起きません、ではない、寢てゐません。和田宿と和田峠のことをなどを調べました。まづ、昨日コピーをしてきた伊能忠敬の計測日記を下諏訪宿まで讀んでみました。理解できない文章も多いのですが、ところどころ、ぼくたちが歩いてきた地名が出てくるので、懷かしく思ひ出しました。

さらに、昨年十月に求めてあたためておいた、長井典雄著『中山道 和田宿の記録』(山海堂)を開いてみました。「交通賦役の足跡と鎮魂と」といふ副題が示すやうに、宿場の實態が浮きあがつてきました。また、和田峠が、和田宿にとつてどんなに重い負擔だつたかがわかつてきました。「紀行」の中で引用したいと思ふ資料もたくさんありました。

その中に、ちよつと注目したい古文書を發見しました。それは、「和田峠道普請人足触れ」といふ、峠の道普請のために人足を集めて供給するようにとのお達しです。

           覺 

一 八月十一日より十八日迄、御普請あい始め候、尤附郷三拾七ヶ村、日数八日間の詰切に致し候

一 人足五、二五四人、但し一日に付き六五七人の割…

 右は当秋、楽宮様(有栖川宮家から将軍に嫁ぐ姫)御下向遊ばされ

に付き、道橋格別に念入れ候よう仰つけられ候

 依つて前書きの通り人足割賦、来たる十一日より十八日迄、日数八の

間日々御普請致し候間、右人足来たる十日晩、和田宿にあい詰め候よ

う、なさるべく候

一 銘々がじ、鍬、鎌、なた持参候よう、仰つけらるべく候…

一 峠より其の日限り宿元帰り候いても(毎日、宿舎に帰っても)御普請

 場遠くあいなり候間、峠のうちは茶屋へ人足留置く事もこれ有るべく候    

(以下省略) 

 

この文書は、「有栖川宮家から将軍家斉に嫁ぐ姫様の御通行に対する道路工事を人足供給義務がある村々へ通知したもの」ですが、はじめこれを讀んだとき、皇女和宮さんの嫁入りのときのことかと思ひました。有栖川宮家からなんて書かれてゐますし、「楽宮」は「和宮」のまちがひかと思つたからです。しかし、嫁ぎ先が將軍家齊でしたので納得しましたが、この「楽宮様」とは誰なんでせう。

なにせ、家齊は側室四十人といふつはものです! のちの將軍家慶の母親にあたる、香琳院といふ側室が、「楽宮様」らしいのです。が、『德川實紀』では、「おらくの方うせられぬ」とその死去についてだけ記され、家慶を生んだときには名前すら書かれてゐません。

しかも、この「おらくの方」は京都から下向してきた様子はありませんし、大奥に入つたのが天明七年(一七八七年)です。この「和田峠道普請人足触れ」は文化元年(一八〇四年)のことですから、明らかに「楽宮様」とは異なります。謎が殘りました。

いや、餘分な詮索に走つてしまひましたが、その「楽宮様」御通行のために、人足にかり出された人々がたくさんゐたんです。ぼくたちが休んだ、「人馬施行所」(茶屋)には、旅人ばかりでなく、峠道の普請のために汗水流した人足たちも泊まつてゐたんですね。 

 

今日の寫眞:①長井典雄著『中山道 和田宿の記録』(山海堂)。②和田峠「人馬施行所」。

 


コメント: 0