八月卅日(土)癸酉(舊八月六日) 曇り、涼しい

 

今日も、「中仙道を歩く(十八)」を書き續けました。特に、浪人塚のところを詳しく書きました。上洛しようとやつてきた天狗黨と實際に戰つた鵜飼雪谷といふ高島藩士が書き殘した、『信濃国諏訪郡戸沢口樋橋合戦』といふ記を引用して述べたんです。きつと讀むのに苦勞するだらうなと思ひながらも、原文を記さずにはをれませんでした。

いや、讀んでくれればいいですが、飛ばされるかも知れません。でも、これはぼくの勉強なんです。これだけのものが讀めるやうになつてきたといふ、自分自身に對する記でもあるんです。もちろん、わからないものは引用しません。

讀む氣がなければ、どんなにやさしくても讀みませんが、讀む氣になつて取り組むとけつこう讀めるものなんです。歴史を學ぶのに、原文を讀むこと以上の勉強と試練はないことを自らに語り續けていきたいと思ひます。 

 

 甲斐さんからご返事が屆きました。森さんもさうでしたが、どうみても、甲州道中のはうが樂だつたやうに見えるその街道を通さなかつたのは、それだけの理由があつたやうですね。

 「甲州街道は小仏峠(標高五四八㍍)、笹子峠(一〇九六㍍)がありますが標高差が少なく和田峠、碓氷峠越えに比べ楽に登れました。

 甲州街道を参勤交代で使った大名は確か高遠藩他二大名だったようです。

 幕府には甲府・甲州(天領、江戸に何かあった場合の将軍家の逃げ場所)を通過させたくない、知られたくない何らかの理由があったのではないでしょうか?」

 どんな理由があつたのか、今日とりあげた、天狗黨と高島・松本兩藩との戰ひの中でちよつと觸れたところがありました。調べて見たいですね。またひとつ謎ができてしまひました。 

 

今日の寫眞:昨夜載せられなかつた、かつて川や用水にかかつてゐた橋の親柱。その水路が、遊歩道になつてゐるのがせめてもの慰めです。地域は、堀切と東堀切とお花茶屋です。

 




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