九月四日(木)戊寅(舊八月十一日) 曇天

 

明け方、ふと言葉が浮かんだので、瞬時にメモ用紙に書き出しました。メモるには長文でしたが、それは、歴史に關することだつたので、いつその事、次回の「中仙道を歩く(十九)」の、〈はじめに〉とすることにしました。歴史を學ぶことにどんな意味があるのか、といつたやうな問題に觸れてゐるんです。ちよつと説敎臭くて、惡い癖が出たなと思ひましたが、たまには眞面目なこともいいだらうと自分を納得させました。 

 

このごろは、あれこれ調べながら讀んでゐるので、『夜明け前』のほかに、何册も竝行して讀むことが多いのです。九月の「中仙道を歩く」は、下諏訪宿から贄川宿までですが、まだ下諏訪宿の中であるところに、「魁塚(さきがけづか)」といふのがあります。「明治維新のとき、東山道鎮撫軍の先鋒であった赤報隊の隊長相樂総三が僞官軍として処刑された場所である」さうです。

これについては、ぼくはだいぶ興味があるもんですから、長谷川伸の『相楽総三とその同志』はもとより、きのうから、北方謙三の『草莽枯れ行く』を讀みはじめました。長谷川伸のはうは、必要なところを讀み齧ればいいなと思つてゐるんですが、それでも砂をむやうなところがあります。けれど、北方謙ちやんのは、もう面白くて、勉強や調べものをしてるなんて忘れるほどです。山岡鐵舟や新門辰五郎や淸水の次郎長までが登場します。はぎれがいいし、物語として魅力いつぱいです。

その他にも、芳賀登著『草莽の精神』は、藤村の『夜明け前』との關連で相樂總三にふれてゐますし、晝寢してゐる暇もありません。いや、相樂總三らの悲劇は、思ふに、「幕末暗殺史」といつた華々しい舞臺とは一線を畫してゐるところが興味深いです。それは、明治新政府(の母體)の汚點といふか、後先を考へない殘虐さを示してゐると、ぼくは思つてゐます。「魁塚」に、實際に足を運んでから、もうすこし述べてみたいと思ひます。 

 

今日は、九月四日。四のつく日です。母が、それで、今日は鴨に行つてくるといつて、ひとりで出かけていきました。町屋驛から都電荒川線に乘りかへて、庚申塚まで行き、にぎやかな地蔵通り商店街を歩いたさうです。屋臺でお好み燒きを買つて食べ、また何か服のやうなものを買ひ込んださうですが、深くは聞きませんでした。歸りは、鴨驛前から、またいつかのやうに、バスで淺草行き、そこで龜有驛行きに乘つて、堀切に戻つて來たさうです。無事に戻ることができてよかつたです。

それで、ぼくと妻は、夕食後、“夜のピクニック”に出ました。といつても、お花茶屋商店街をぶらついて歸つてきただけです。歩數は三四五五歩でした。

はじめ、ツタヤに入り、「リディク2」を借りようとしたら、ぼくのTカードの期限が、二〇一一年で切れてゐることがわかつてダメでした。近くには、妻が子どもの頃に通院したといふ、所司醫院と淸信齒科もありました。古本屋に立ち寄り、双葉中學校の脇を通つて歸つてきましたが、その角にあつた、ぼくと妻が出會つた敎會は移轉してしまつてゐました。樂しかつたころの情景がふと思ひ出されました。 

 

今日の寫眞:中學校の隣、マンションに變わり果てた敎會跡。と、その昔の思ひ出寫眞。まだぼくがひげを生やしていませんね!妻も若かつたです!

 


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