九月(長月)十一日(木)乙酉(舊八月十八日) 雨降つたりやんだり、時々雷

 

九月九日の東京新聞で、『昭和天皇実録』が編纂がされたことを知りました。

ご存知のやうに、『日本書紀』からはじまる《六國史》は、つづいて、『續日本紀』、『日本後紀』、『續日本後紀』、『文德天皇實録』、そして、『日本三大實録』と續きます。そこで、國史としての編纂作業は終はつてしまひ、それを補ふものとして、『日本紀略』や『帝王編年記』、さらに、『百錬抄』、『續史愚抄』、別格として、水戸光圀の『大日本史』などが記されてきました。

とりわけ、明治政府の修史事業として、東京大學史料編纂所が編纂・刊行しはじめた『大日本史料』は、《六國史》以後の國史を充たすものとして注目すべきものだと思ひます。もちろん膨大な史料を、「年月日の順に、原文のまま可能な限り網羅的に収載したもの」ですから、まだ完成にはいたらず、編纂・刊行繼續中といふことです。ぼくは、なけなしの小遣ひで、どうにか、全十六編のうち、刊行されてゐる、一編(平安時代)、四編(鎌倉時代)、六編の既刊部分(南北朝前期)を購入し、その他分册でも、見つけ次第、安ければ手に入れるやうにしてゐます。

まあ、かう見ると、なんて日本人は生眞面目で、几帳面なんだらうかと思ひます。そして、その歴史の延長線上に、『昭和天皇実録』が編纂がされたことを思ふと、ぼくは感無量です、といひたいところですが、ほんとうに、これ以前の「實録」と同等に考へていいのか、ちよつとわかりません。そもそも、《六國史》以後、、『天皇實録』なるものが書き繼がれてきたのかもわからないのです。

歴史にロマンを感じるといふ言ひ方がありますが、それは、もはや現代と關はりのない、推理・推測を樂しむ世界に入つてしまつた歴史にたいして言はれるのであれば、うなづくしかありません。しかし、その解釋をめぐつて、現代に生きる自らの立場や生き方が問はれるとなれば、俄然眞にならざるを得ませんね。いはば、生々しい歴史が、ぼくたち自身に問ひかけてくるわけです。

例へば、邪馬臺國が九州か近畿かなどは樂しんで考察できる歴史でせうが、新選組をどう見るかなどは、ちよつと斷定しにくい歴史ですね。それは、ある意味で、自分の生き方や考へ方に判定を加へるに似てゐると思はれるからです。

《六國史》を、ぼくは樂しんで讀んでしまひました。今思ふと、それでよかつたのかどうかわかりませんが、今度の『昭和天皇実録』はさうはいかないでせう。生々しい記述に滿ちてゐるはづです。どう讀むか、それは、明らかに自分が今どこに立つてゐるのかが問はれることになるだらうと思ふのです。 

 

また、ドイツの愛(よつ)ちやんから、いい言葉が屆きました。「マルギット」さんとは、愛ちやんの奥さんです。 

 

マルギットに淳ちゃんの父上の二周忌の法事があったことを話したら、「もう二年も経つの。」と驚いていましたが、正直私も驚きました。ついこの間亡くなられた様な気がしていたからです。淳ちゃんの日記を読んでいると故人も文章の中に生きていますから、ラムちゃんだって日々新に生き返るんです。不思議ですね。記憶の中に歴史は生きるんです。沢山の良い記憶を大切にしていきたいです。    2014年9月10日 フォークトにて 三輪愛博 

 

どうです。「記憶の中に歴史は生きるんです。」なんて、トウシロからは出てこない言葉ですよね。ほんとうにさうです。ありがたうございました。 

 

今日の寫眞:『昭和天皇実録』公表を傳へる「東京新聞」。一九九五年八月、フォークトを訪ねたとき、シュタイナー學校。それと、陶器市にて。そこで求めたフクロウの置物。

 



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