九月十二日(金)丙戌(舊八月十九日) 晴れ、一時雨

 

いやいや、困つたことになりました。ブリッジを取つて抜齒した右下とは逆の、左下の齒が痛みはじめてしまつたのです。やはり、朝いちで電話して、通院いたしました。こちらもブリッジの支柱となる齒です。齒ぐきが痛くなつたのは、右とまつたく同じです。ぼくは、強く噛みしめてしまふやうなのです。注意は受けていたんですが、直りませんでした。

それにしても、左右同時に抜齒といふことになつたら、どうしたらいいでせう。今朝の診察では、また支柱となる齒が割れたかも知れないと言ひつつ、連休明けに再度診て、最惡の場合、拔くことになると告げられました。それまで、藥で、三日、いや四日間持たせなければなりません。痛みがひどくならないことを祈ります。 

 

ところで、昨日、「《六國史》以後、『天皇實録』なるものが書き繼がれてきたのかもわからない」と書きましたが、調べてみたら、《六國史》以後はやはり編纂された形跡がありません。ところが、明治になつてから、孝明天皇以降の天皇の實録が宮内省で作られてゐたのです。

これまでに、『孝明天皇紀』と『明治天皇紀』が完成してゐるとのことです。ところが、『大正天皇紀』に關しては、編纂はなされましたが公開はされず、「健康問題が関わっているのでは?」などの樣々な憶測がなされました。が、現在、どうにか、一部黒塗りされて公開されてゐるやうです。しかし、刊行はされてゐません。そして、今度の『昭和天皇実録』です。少しずつ刊行されて行くやうなことが言はれてゐますね。

ぼくとしては、幕末維新に關する、『孝明天皇紀』と『明治天皇紀』の一部分でもいいから讀んでみたいですね。もちろん、「大本營發表」そのものですけれど、載せられた史料は、それ自身の、赤裸々な事實を語つてくれるでせう。 

 

北方謙三著『草莽枯れ行く』(集英社文庫)が讀み終はりました。昨夜、おそくまで、一氣に讀み進みました。ぼくは、かういふ内容には、義憤を覺えて熱くなつてしまふんです。それで、ますます寢つけなかつたからでもあります。

相樂總三、たしかに、尊王攘夷をかかげ、いちどは尊王攘夷派の藤田小四郎率ゐる天狗黨に加はつてみたものの、それが、すでに水戸藩の内紛に變質したことに氣づき、草莽の志士として、諸藩の後盾もなく、關東の尊攘派有志をまとめることに力を注ぎます。「貧しい農民が蜂起し、それが全国に拡がって、やがて幕藩体制を崩す。そのための捨石になってもいい」と考へてゐます。

しかし、そのやうにして、關東の草莽の中心人物として、尊王攘夷から尊王倒幕へと力をつけてきた彼らを利用できるとみたのが、薩摩藩の西郷隆盛だつたのです。官軍の東征の先けとして、信州上州の草莽たちを使へると判斷したわけです。

相樂總三たちとしたら、「この国の夜明けを告げながら進む」ことができるのです。誇らしく、「心がふるえます」。「目指すは江戸。赤心をもって事に当れ」と、赤報隊と名乘ります。「旧幕領に関しては、年貢半減」といふ、太政官から出された勅定書をいただいての進軍です。その進軍の途中、赤報隊に加はりたいといふ者が多數出てきますが、その一人に、島崎正樹が登場します。『夜明け前』の青山半藏のモデルとなつた、島崎藤村の父親です。

その會話のなかで、相樂總三が、「われわれは、托されているのですよ」。島崎正樹が、「新政府に?」と問ひかへすと、「いや、これまでの闘いで死んで行った、同志たちに、倒幕軍の先鋒に立てと托されていると思っています」と。ぼくは、この氣持ちがよくわかります。自分の決斷とは別のところで、促し、導くものがあるといふことです。人を動かす力は、だから生きてゐる者の専有物ではなくて、どう生きたか、その生きざまが、のちの人々を動かす原動力にもなるんです。死んだら終りぢやあないんですね。そこんところがほんとうにわかつたら、人間、生き方が變はらざるを得ないでせう。

ところで、下諏訪に着くと、相樂總三は、先遣隊を碓氷峠に遣はしますが、岩村田藩や小諸藩などの連合軍の抵抗にあひ、戰死した赤報隊員のなかに、碓氷峠にあつた、忠魂碑の主、金原忠藏がゐたんです。これでひとつ疑問が解けました。

さて、下諏訪に到着するまでの行軍中から、赤報隊は僞官軍であるといふ噂が、故意に流されたとしかいへない仕方で聞こへてくるのです。そして、結局、岩倉具視の息子である、岩倉具定率ゐる總督府軍によつて、無理やり捕縛され、斬首されてしまふのです。

著者の書き方によれば、それは・・・。

「要するに、新政府ははじめに民と約束したこと(年貢半減)を守れないかったのだ。守れないから、その約束をして進むのが任務だつた総三を殺した。もうひとつの大きな理由は、先帝(孝明天皇)を岩倉具視が暗殺した、ということを知っていたのが、総三と井牟田尚平だつたのだ。・・・総三がなにをやったかというと、それだけなのだった。つまり、少数の人間の都合のために、殺されたのだ。殺しただけでなく、汚名も着せた。やくざでもやらないことだ、と次郎長は思った。・・・ただ、あれほど倒幕というものにすべてを捧げた、総三を殺したのだ。それも、偽りものとして殺したのだ。筋が通る通らないの問題ではなかった」。

どうです、この怒りと憤懣。淸水次郎長に語らせてゐるところが、北方謙三センセイらしいですね。

本書では、下諏訪宿にある「魁(さきがけ)」塚のことについてはふれてゐませんが、それは、『中仙道を歩く(十九)』の中で述べてみたいと思ひます。 

 

今日の寫眞:①『孝明天皇紀』の原本。明治三十九年に完成して長らく公刊されずに、極秘資料として宮中奥深くに眠つてゐたもの。全二二〇卷。昭和四十六年になつて、全五卷にまとめられて公刊されてゐます。②それと、『明治天皇紀』。ちなみに、『明治天皇紀』は大正から昭和にかけて編纂されたものなので、口語的な書き方がされてゐますが、孝明天皇紀』は『日本書紀』同樣、漢文で書かれてゐます。《六國史》とくらべて、どういふ漢文なんでせうか、興味津々ですね! ③相樂總三畫像。④青山墓地にある相樂總三の墓。

 



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