九月十三日(土)丁亥(舊八月廿日) 晴れ

 

昨夜は、寢る前に、參考文獻に載つてゐた、網淵謙錠著『(えん)』(『苔(たい)』〈中公文庫〉所収)を讀みました。相樂總三の死をめぐつて、さらに敎へられることがありました。

長谷川伸の『相楽総三とその同志』(中公文庫)をとびとびに讀んでましたが、その中に収められてゐる、「木村亀太郎泣血記」は、總三の孫、木村龜太郎が、祖父の雪辱をはたすまでの、「血涙の苦心をはらう」物語だといふことを知りました。これはすぐ讀まなければなりません。

それと、相樂總三の死をめぐつて、西郷隆盛はどう關はつたのかといふことについてです。ちよつと長いですが、その部分を引用してみます。

「少なくとも〈年貢半減〉を政治工作のスローガンにかかげさせたのは西郷であった。それならば、・・・藩をもたない〈草莽の士〉を使って政治工作をすすめ、不要になったらこれを捨てることを、初めからはっきりと意図していたのであろうか。

西郷の人となりからみて、これは考えられない。むしろ西郷はこの政策転換の時点から、政府首脳部の同輩・後輩たちによって徐々に敬遠されたのではないだろうか。おそらくこの政策転換による赤報隊のとりつぶしには、西郷は極力反対したか、あるいは全く圏外に立たされて知らずにいたであろう」。

それにつけ加へて、かうも述べてゐます。

「その後、次第に新政府から疎外され、かれと同じく新政府に幻滅をいだいた士族たちにかつがれてゆく西郷の悲劇は、どうも慶応四年一月半ば頃の、政策転換のさいから始まったような気がしてならない」。

さういふことのやうです。網淵謙錠さんが言ふのですから、納得したいと思ひます。 

 

いやあ、面白かつた、といつては大變不謹慎ですが、たしかに一氣讀みの價値ありです。長谷川伸の木村亀太郎泣血記』です。推理小説のごとく、相樂總三の冤罪が晴れるのかどうか、總三の孫、木村龜太郎のその奮闘努力が眞に健氣なのであります。

「或る日、仏壇の掃除をしていると、妙なものが出てきた。包紙をのぞいて見ると、硬(こわ)ばった一握りの髪の毛である。ひと目でそれが男の髻(もとどり)であると判った。硬ばっているのは血が古くなっているのである。・・・不審に思って訳を母に質すと、母は厳粛にその由来を語った。

『(京での開戰の理由をつくるために、幕府軍に薩摩藩邸を襲はせたのは、相樂總三とその浪士組だつたのです〈!〉が、その挑發の後=以上(・・)内はぼくの補足です)、品川から薩州の軍艦で京都へのぼり、西郷吉之助などに会い、今度は官軍赤報隊を編成し、隊長となって、江戸の德川を攻めに出発し、信州へ出たところ、他の隊長が讒言をしたために明治元年三月三日、信州下諏訪という処で、賊をはたらいた僞勅使という汚名を着せられて殺された。この髻はその祖父ので、血は祖父の怨みの血だ』」、ときかされた木村龜太郎が、「相楽総三の雪冤に、一代を傾倒して悔いずと固く実行を誓つた」、その物語がくりひろげられるのです。

その結果、昭和三年十一月十日、相樂總三たちへの「御贈位の誓願」が受け入れられ、昭和四年一月十七日に、長野縣で贈位記傳達式がとり行はれます。さらに、「昭和五年四月三日の相楽祭の日、“魁塚碑”の除幕式が行われた。相楽が刑に死んで六十有二年、初めて偽官軍の汚名が雪がれた。龜太郎ば少年のとき仏壇の奥から見つけ出した相楽総三の血のついた髪の毛は、魁塚碑の下にうずめ、屍が土に還った下諏訪の地に還した」。それが、次回の「中仙道を歩く」で訪ねる、「魁塚」なんです。 

 

ちよつとつけ加へると、龜太郎が、もと赤報隊の生き残りの峰尾小一郎を訪ねたときの言葉が印象的です。

「われわれが、若いときに夢みていた王政復古の実現をみますと、薩長が権を妄りにいたし、われわれ関東武士が血みどろになって働いた功はすべて奪われて、彼らのものとなりました。明治維新の火蓋を切らすに至った功は、闇から闇です。・・・彼らはわれわれのような関東武士の生残りが、一人二人ずつ、世の中から消えてゆくのが望みでしょう。彼らは関東武士で勤王に働いたものが、一人でも世に出ようとすると、陰に廻つて悪辣に迫害します」。

ぼくは、猛省しなければなりませんが、つい最近まで、尊王攘夷から尊王倒幕へと、明治維新を築いたのは、薩長をはじめとする西國諸藩だとばかり思ひこまされてゐました。しかし、關東には、いや、東國には、相樂總三をはじめとする、〈草莽の志士〉が大勢ゐて、すでに、新しい時代の素地を作つてゐたんです。そこんところをぼくは、ぐつと腹におさめました。

「明治維新が成功したのは、一部の公家と薩長の侍、神官、学者などの力だけではない。その蔭に埋もれた、あるいは埋められた関東の侍、神官、僧侶、そして博徒たちの働きもあったことを、著者(長谷川伸)はこの一册の中で明らかにしている」。以上、相楽総三とその同志』の解説者、村上元三の言葉をお借りしましたが、まさにその通りなんです。

 

「かれ(相樂總三)の尊王攘夷運動の思想的バックボーンをなしたものは、当時のローカル・リーダーたち=たとえば明治の国文学者落合直文の養父である落合直亮、信州諏訪の岩波美篶、飯田武郷、また信州馬籠の島崎正樹など=に共通した平田派国学である。平田派の同門意識は強く、また全国的なひろがりを持っていた。平田派の国学を修めたということが総三の活動範囲の拡大に大いに役立っていることは見のがしえない事実である」(『冤』)。

にもかかはらず、自分たちが時代を切り開いたかのやうに開き直り、東國の勤王家を「悪辣に迫害」した薩長閥を、ぼくは斷固許せませんね! 

 

話は飛びますが、東京、いや江戸の由緒ある地名がことごとく替へられたことがありました。江戸文化を破壊した暴擧だとぼくは、思つてゐますが、それは、「薩長」の意をくんだものたちの仕業ではないかと、ぼくは確信をもつて訴へたい! 

 

今日の寫眞:やはり、お祭りは子どもたちが主役です!

 




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