九月十四日(日)戊子(舊八月廿一日) 晴れわたり、風さわやか

 

昨夜は、『赤報記』(『新編信濃史料叢書第二十巻』所収)を讀んでしまひました。赤報隊員が書き殘した記です。卷頭には、「赤報隊の惣人員名」が掲げられ、次いで、慶應三年十二月廿五日から、翌四年三月三日、つまり、相樂總三たちが斬首されるまでの「日次記」が記されてゐるんです。著者は不明であるとされながらも、解説には、「下諏訪での処刑の厄を免れた隊員の手記と推測される」とあります。内容は、赤報隊の活動とともに、「誓詞、布告、誓願、軍令、回章探索書、差出、罪状等、日次で詳細に記述されている」。

中には、もちろん、相樂總三の文章も見られます。例へば、小諸藩兵によつて、金原忠藏らが討たれたとの知らせを受けたあとの「報告書」には、「実に彼等(小諸藩兵)如き鼠輩之為メ、侮慢ヲモ蒙り失敬被致候テハ、武士之一分不相立、甚以残念之至ニ候」、とその憤懣をうちあけてゐます。緊迫する、二月二十七日からの記を追つてみませう。

尚、(・・・)はぼくの補足、靑文字は「日記」の地の文、黑文字は口上書と罪状文です。 

 

     二十七日 今日当隊一同樋橋(とよはし)ヘ移ル

      (これは、後から到着した官軍・總督府に、下諏訪宿本陣をゆづるためです)

二十九日 今日薩州ヘ差出候口上書 (以下は、相樂總三の口上の文章の一部です)

・・・甚以心痛仕候、若曲直等御調被成候義ニ候ハゝ、朝敵鎮静之後ニ被成下、 私隊之者曲事ニモ候ハゝ、其時厳罸モ甘テ受可申候、・・・

                  二月二十九日    相楽惣三

(いろいろ不手際があつたので、「朝敵鎮静之後ニ」は、どんな罰でも受けますよといふ、鄭重な言ひやうです!)

三月朔日 今日相楽総三下諏訪御本陣ヘ爲伺出向、遂ニ無帰陣

二日  総督府ヨリ御用状到来

           総督府 執事    相楽総三 惣人数中

御用之儀有之候間、下諏訪御本陣ヘ惣人数早々参着可致モノ  

                         三月二日

依之、一同御本陣ヘ晩景到着、総テ被縛

三日  夜五ツ時頃下諏訪上入口於田中断頭之上梟首

            相楽総三

右之者、御一新之時節ニ乗シ、勅命ト偽リ、官軍先鋒導隊ト   

唱ヘ、総督府ヲ欺キ奉リ、勝手ニ致進退、剰諸藩ヘ応接ニ及 

或ハ良民ヲ動シ、莫大之金ヲ貪リ、種々悪業相働、其罪数フル

ニ遑アラス、此侭打捨置候テハ、弥以大変ヲ釀シ、其勢制スヘ

カラサルニ至ル、依之誅梟首 道路遍諸民にシラシムルモノ

 

 

相樂總三を含めた八名の赤報隊員は、以上のやうな汚名を着せられ、有無を言はせずの捕縛と「断頭之上梟首(さらし首)」となつたのです。力を持つたものの恐ろしさを見せつけられます。そして、これが、明治以後の歴史の底に流れてゐるんでせう?

おさらひしますと、これは、鳥羽伏見の戰ひが一月のはじめにあり、官軍の東征が行なはれ、甲州勝沼の戰ひが三月六日に行なはれるまでの、その間の出來事なんです。勝沼で、近藤勇が率ゐる「甲陽鎮撫隊」を敗走させたのは、かの板垣退助ですが、彼は相樂總三とはたいへん親しかつたのです。ですから、板垣退助が下諏訪にとどまつてゐたら、もう少しどうにかなつてゐたのではないかと思つてしまひます。いや、きつと、板垣退助を下諏訪から追ひやつておいたのも、總督府の謀略の一部だつたのでせう。

歴史はかへらずとも、思ひ出すものがゐる限り、生々しく生き續けるのもまた歴史なんだと思ふのであります。あれ、何だか、愛ちやんの言葉と似てしまひました? 

 

今日の寫眞:再び氷川神社のお祭り。子どもの山車に神輿。それと、我が親交会の“夜の神輿”! 祭はやるもんで、見るもんではない、といふことを聞いたことがありますが、それはもう若い頃のこと。今は見て樂しめるだけでもよしとしなければなりませんです。はい。

 




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