九月十七日(水)辛卯(舊八月廿四日) 曇り

 

今日は、『夜明け前』を讀み進みました。しかし、以前讀んだやうにははかどりません。少しでもわかわない事柄が出てくると、確認しながら進んでゐるからです。

例へば、木曾十一宿が尾張藩の領地であつたこと、

本陣の當主吉左衛門(半藏の父)と年寄役の金兵衛の「二人に言はせると、日頃上に立つ人達からやかましく督促せらるゝことは、街道の好い整理である。言葉をかへて言へば、封建社会の『秩序』である。しかしこの『秩序』を亂さうとするものも、さういふ上に立つ人達からであつた」こと、

木曾五木(檜木、椹、明檜、高野槇、𣜌)について、

「馬籠の宿の一番西はづれのところに」建てられた芭蕉の句塚について、

 

木曾名物には「お六櫛」といふやつがあること、

主人公の靑山半藏は、「心のさみしい折には、日頃慕つてゐる平田篤胤の著書を取り出して見るのを癖のやうにしてゐた」こと、そして、中津川宿の平田派の國學者宮川寛齋の弟子となつてゐたが、江戸に赴いて、平田篤胤の相續者平田鐵胤の門人となつたこと、

「祭の樂しさはそれを迎へた當日ばかりでなく、それを迎へるまでの日に深い」と思ひながらも、一年に一度の祭禮狂言を村中で樂しんでゐること、

安政の大地震のこと、

そして、牛方衆と「強慾すぎる」問屋との爭ひについて、このことに、新しい時代を豫感してしまふ靑山半藏であること、

などなど、黙つて見過ごせない問題をはらんで物語は進行してゐるところであります。いやあ、原文が、正字・正假名遣ひですから、寫しやすかつたです。はい。 

 

朝、齒醫者さんにいきましたが、まあ、豫想通りでした。しばらくは我慢したいと思ひます。でも、何年か前までは、齒醫者に行くことはなかつたんです。思ふに、ずつと飮み續けてきた樣々な藥のせいなのではないでせうか。一遍に惡くなつてしまひましたもんね! 

 

今日の寫眞:たぶん、史策會の森さんからいただいたと思ふ(?)、『信州木曾路 中山道を歩く』の表紙と、その「ウオーキングマップ」一頁目。例の櫻澤(「是より南木曾路」碑)から、馬籠の「芭蕉の句塚」のある新茶屋(「是より北木曾路」碑)までのウオーキングマップが丁寧に記されてゐるんです。それにしても、木曾路については、參考書が多すぎて困るほどです。

 


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