十月八日(水)壬子(舊九月十五日・望・寒露) 晴れ 夜、皆既月食

 

「中仙道を歩く(十九・後編)」、今日も進みました。やつと、鹽尻宿を通過して、桔梗ヶ原に到達。そこで、無い頭と蔵書を引つぱり出してきての大奮闘の結果、宗良親王の生涯に言及することができました。ただ、どこまで成功してゐるかどうかはご覽になつてのお樂しみです。

そのおかげで、また頁數がふえてしまひ、まさかとは思ひますが、三册になつたらどうしませう? もう、責任はとれませんよ! 

 

先日、「ひと味違ふ秋成本」として紹介した本ですが、これはすごいと思ひました。桐山洋一著『序章 上田秋成私解』です。どうすごいかと問はれて、すぐには答へられないすごさなんです。

本居宣長と上田秋成との論爭は、實は、現在のぼくたちが言語をどのやうにとらへてゐるかといふ問題と、切つても切れない關係にあるといふのです。

「絶対的神話国家の権威と権力を自己存立の意味のかなめにした宣長と、自己の存在自体を意味にかえる主体的なことば以外に何ものも持ちあわせていない秋成との対決、といった構図」だといふのです。つまり、何らかの威の威を借りて語つてゐるか、自分が語るその言葉以外には何の保證も支へもなしに自分を意味づける言葉を語つてゐるかの違ひです。

むずかしいでせう。ただ、よく讀んでゐるとだんだんとわかつてくるものがあるんですね。これが大事だと思ひます。けれど、それがうまく表現できないといふのは、よく理解してゐないからなんでせうけれど・・。

また本書は、小林秀雄の『本居宣長』をこてんぱんに批判してゐます。小氣味よいくらいです。次の言葉にはインパクトがあります。「『歴史』とは、『過去』を確かな『未来』にかえる『人間』という『思想』の『生命力』を意味している。ところが小林(秀雄)氏の発想からすると、『歴史』とは単なる『過去』として、自分という現実の外側に存在しているものなのだ」。著者が述べてゐることは、實は、ぼくが「紀行」で實踐してゐることです。過去を未來に變へる作業です。それは、過去は死んではゐないと思ふからです。だからよくわかります。

ところが、小林秀雄は、「歴史には死人だけしか現れてこない。従つて退つ引きならぬ人間の相しか現れぬし、動じない美しい形しか現れぬ」と言ひ切つてしまつてゐたとは、ぼくも迂闊でした。「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい」も有名な言葉です。しかし、かうして讀んでみると、なんて變てこなんだらうと思ひます。動じないから美しいとはどういふことでせうか。歴史を自分の理解の内にからめとつてしまつて、その息の根をとめたそのかたちを愛でてゐるとしか思へません。解釋を拒絶してゐるやうに見えるだけで、ほんとうは、小林秀雄が解釋を拒絶してゐるのではないかと思ひます。 

 

今日の早足:夕食後、二十分ばかり歩いてきました。そしたら、今晩は望(滿月)で、しかも皆既月食だつたんですね。ただ、街燈などの明りでよく見えませんでした。 

 

今日の寫眞:「中仙道を歩く(十九・後編)」で觸れた、白羽の風蝕礫。特に黑いのは、三稜石といひます。夜、七時半ごろの皆既月食。どうしてもぶれてしまふ!

 


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