十一月十二日(水)丁亥(舊閏九月廿日) 曇天

 

今朝は、昨日インストールしたATOKの「操作ガイド」を見ながら、使ひ方を學びました。言はれてみなければわからない操作があつて、いい勉強になりました。

けれども、もう一度打ち直したはうがよささうな操作も多く、役立ちさうなのは、「單語登録」でした。よく使ふ言ひ回しを登録してしまふことですね。がんばつて見ようと思ひます。

 

『中仙道を歩く(二十・前編)』册子版が、ほぼ仕上がりました。寫眞を入れかへたり、多少書きかへたりしたところがありますが、一旦出來あがつてしまふと、もう手を離れたやうな氣がして、あとは機械的に編集してをります。

 

また今日は、織田正吉『百人一首の謎』(講談社現代新書。今日の寫眞の一番左)を讀みはじめました。「ひげ日記『百人一首』講座?」の構想をゆつくりあたためるために讀みはじめたんですが、面白くて、ついついのめり込んでしまひました。

この人、理科系なんです。それで、理科系から見た疑問を投げかけながら、それに答へようとしてゐるんですね。まづ、通例、『百人一首』は藤原定家が撰んだものとされてゐますが、織田先生は疑つてゐます。

『百人一首』といひますけれども、僕たちが現在手にして讀んだり、かるたをして遊んでゐるものが一つ(イ)。それと、定家の日記である『明月記』に、息子の奥さんの父親である人物から賴まれて、小倉山にある山莊の襖に貼る色紙を書いたことが見られるので、たしかに定家の撰だと言はれてゐる作品があります。『明月記』色紙和歌(ロ)といひ、通例は、これが、いはゆる『小倉百人一首』といはれ、現在のものとおなじものといはれてゐますが、異なる部分があるんです。

ところが、そのほかに、「昭和二六年、宮内庁書陵部の蔵書の中から発見された写本」の、『百人秀歌』といふ歌集があるのです(ハ)(寫眞左から二册目。先日、西秋書店で二百圓で求めたもの!)。これは、『百人一首』の下書き、といふか、原稿のやうなもののやうなのですが、ほとんど同じです。

これら三種、數人人物が入れ替はりますが、ほとんど同じです。しかし、末尾の歌人が異なるのです。(イ)は、後鳥羽院・順徳院まで。(ロ)は、家隆・雅經まで。(ハ)は、定家・公經まで。さて、その違ひは何を告げてゐるのでありませうか? ぼくもはやく知りたいです。

 

今日の寫眞・・『百人一首』の影印本各種。謎に包まれた歌集なんです!

 

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