十一月十五日(土)庚寅(舊閏九月廿三日・下弦・七五三) 晴

 

今日は、入手した、『兼載筆 百人一首』(新典社・影印校注古典叢書)をこれから讀まうと思つて、改めて、變體假名を學びました。これはさうむづかしくはありません。同一人物の書であれば、だいたい使用する假名が一定してゐるからです。すこしなれればいいだけです。それにしても、だんだん身についてくるのを待つだけで、一氣に暗記するといふ努力を缺いてゐるもんですから、つまづきの連續です。

大變なのは、あれこれ異なつた人の書いたものを讀む場合です。先日、中仙道を歩いてゐて、いくつもの石碑に出會ひましたが、まともに讀めたものはありませんでした。その字體になれるまで待てなかつたのが殘念でした。

本の場合も、同じ文字(假名)でも、いくつもある變體假名の使ひ方が違ひますし、微妙にといふより、はつきりと書きぶりも異なるのです。その度に、『変体仮名の手引』とか、『仮名変体集』とかを何册もてもとにおいて見くらべなければなりません。

でも、最近になつて、初めて手にした、例へば、『百人一首講釈』(古典文庫)とか、『落し咄(寛政頃写本)』(同)なんか、だいたい讀めるやうになつてきたのであります。努力のし甲斐があつたといふもんです。でも、すらつとはいかないので、クスクスと笑へるまでにはいたりませんが、読み慣れることが何よりたいせつだと思つてゐます。

 

ところで、織田正吉著『百人一首の謎』(講談社現代新書)を讀み終へました。目から鱗でした。考へてもみなかつたことを指摘されて、興奮してしまひました。

「『百人一首』 は(藤原)定家が後鳥羽上皇の呪詛を恐れ、鎮魂のおもいを秘めた歌集」だつたのです。「百人百歌」ではなく、「百人一首」といふことは、『百人一首』をもつて、一つの歌のごとく、撰者の感情を明らかにしてゐるといふわけです。『百人一首』がクロスワードパズルだとは、表面の装ひとは別に隠されたメッセージがあつたのであり、だから暗號でもあつたといふことなんですね。

お聖さんこと、田辺聖子さんが、織田正吉著『絢爛たる暗号 百人一首の謎をとく』(集英社)の序文で次のやうに書いてゐます。

「織田正吉さんは、百人一首の謎にはじめて四つに取り組んだ人である。

なぜ類似の歌が多いのか。なぜ駄作・愚作の歌を、一世の大歌人・定家ともあろう人が採録したのか。織田さんは素人の素朴な疑問と直観を大事にして、その謎に挑戦していった。

そしてついに前人未踏の秘密を解明した。

私はこの本を読みすすむうち、緻密な推理小説を読むような緊迫感と昂奮を感じ、夢中にならずにはいられなかった」。

だから、一首づつ讀むことが、意味ないことだとは言へませんが、ぼくは、どうせなら、まともでない讀み方をしていきたいと考へてゐます。

 

”夜のピクニック”・・ラムちやん散歩コースに從ひながら、お花茶屋方面をひと回りしてきました。五三九〇歩でした。

 

今日の寫眞・・織田正吉著書二册と、お花茶屋驛前。

 


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