十一月十六日(日)辛卯(舊閏九月廿四日) 晴

 

本を整理しがてら、藤原定家についてのものをさがしたら、いやあ、出てくるは出てくるはで、十四、五册も見つかつてしまひました。十數年も以前から、目にとまつたのを買ひ求めてきたものですが、『藤原定家』と題したものだけでも、著者をあげれば、村山修一、川田順、安藤次男、久保田淳がをり、他に、塚本邦雄には、『藤原定家 火宅玲瓏』、『定家百歌 良夜爛漫』それに、『藤原俊成・藤原良經』と『菊帝悲歌 後鳥羽院』があります。ぺらぺらとたまにはながめてゐたんですが、讀み出す切つ掛けがなかなかありませんでした。

それと、九條兼實の日記『玉葉』と竝んで有名な、定家の『明月記』も揃へてゐたので、いつかは讀んでみようと、その機会を模索してゐたわけなんです。それが、「百人一首」が切つ掛けとは、何が幸ひするかわかりませんね。

あ、それと、また、『百人一首の謎』の織田正吉さんが、『「古今和歌集」の謎を解く』(講談社選書メチエ)を書いてゐたとは、整理してゐたら出てきたんです。忘れてました。『百人一首』は、「美と諧謔と遊戯の混在する詞華の絵巻」なのに、みな眞面目くさつて讀むものだから、正岡子規のやうなトンチンカンな批判が出てくるのであり、「子規の恫喝一〇〇年の余韻から解放され、『古今集』は『をかしの歌集』として見直されなければならない」、と、本書でも意氣軒昂であります。〈はじめに〉だけ讀んでみました、が、さらに讀みたいのをぐつと我慢しました。

それは、堀田善衞の『定家明月記私抄』(新潮社)に出會つてしまつたからです。六年前に手に入れておいたのを、これも温めてゐたんですが、今日讀みはじめて、ぼくは、鳥肌が立つてしまひました。いやあ、面白いなんてものではありません。引き込まれてしまひました。定家さんのそばで、その時代を一緒にながめてゐるかのやうな感じに襲はれてしまつたのです。堀田さん自身が興奮を抑へられない態なんです。

もちろん、堀田さんの書き方が、といふより、もう實況中繼してゐるかのやうなリアリティを覺えてしまつたのであります。この際ですから、『明月記』を傍らにおいて、續編とともに讀み通してしまはうかと思ひます。『古今和歌集』と『新古今和歌集』と『百人一首』の世界にも觸れることができるのではないかと思ひます。何だか、導かれてゐるのかなとも思ひたくなりますです。はい。

 

今日の寫眞・・『定家明月記私抄』を中心に、左に、

『定家百歌』、右に、『藤原定家』。

 

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