十一月十七日(月)壬辰(舊閏九月廿五日) 晴のち曇天

 

昨日から讀みはじめた堀田善衞の『定家明月記私抄』ですが、なぜ面白いかわかりました。述べてゐる事柄が、堀田さんの關心からそれることなく物語られてゐるからなんです。それは、ぼく自身も氣をつけてゐることですが、人に教へよう、人にわかつてもらはう、或ひは説明するなどといふ氣持ちではなく、むしろ自身が納得しようとして語つてゐるんですね。これは歴史を學ぶことにおいてとても大切なことだと思ひます。

それと、それを讀むぼく自身についていへば、引用された『明月記』の文は、必ず原文にあたるやうにしてゐるんです。漢文といつても、いはゆる變體漢文ですからなれてしまへば難しいことありません。むしろ、讀めると快感です。

また、堀田さんの本の効用は、定家の主家筋にあたる、九條兼實の『玉葉』をはじめとして、『方丈記』やら『新古今和歌集』、それに、西行とその歌集、賴朝によつて「日本國第一ノ大天狗」と評された後白河法皇とその取卷きたちについても多く語つてゐますから、堀田さん自身が、「同一の事態に対する反応の差異を見ることは、こういうものを読み進めるについての面白味の一つである」とおつしやられる通りなんです。『中仙道を歩く(二十・後編)』で觸れた、木曾義仲のことも思ひ出してしまひます。

もちろん、手元に原文や影印本があるものについては、これも必ず讀むようにします。定家のことのみならず、當時の波亂に富んだ歴史的状況はもちろん、漢文やくづし字までも學べるのです。いい勉強になりますです。はい。

 

午後、弓道場へ行きました。なんと、五人の方が來られてゐてとてもにぎやかでした。的中も意外に多く、氣分よく歸つてきました。齋藤さんとは、忘年會の相談をはじめました。

 

今日の寫眞・・『皇居行幸年表』は、「歴代天皇の御在所たる皇居および行幸先を天皇ごとに年月日順にまとめたものである。本書には桓武天皇から後醍醐天皇までを収録」とあるやうに、とても便利な本です。例へば、建久三年(一一九二年)三月十三日、後白河法皇が亡くなつたその日、定家は三十一歳、『明月記』では、「天晴。未明雜人云、院已崩御」、以下長々と書き記されてゐるんですが、當の後鳥羽天皇(十三歳)はどこにゐたかといふときに、この書を見るのです。

 

二月十八日 ▽(行幸の印)六条殿[後白河法皇の御悩を問う](玉葉)

   同日 閑院[還御](玉葉)

三月十九日  閑院〈倚廬〉[三月十三日後白河法皇崩御による](玉葉、明月記)

 

 つまり、後鳥羽天皇は、二月十八日に、六条殿に、祖父である法皇を見舞つたが、閑院内裏と呼ばれた、もと藤原冬嗣の邸宅で、平安末から鎌倉中期にかけて里内裏とされてゐた、「閑院」に歸り、滯在してゐました。そして、三月十九日、法皇崩御によつて、喪に服すために、「閑院」に〈倚廬(いろ)〉(つまり假屋)を作つて入られた、とかういふやうなことがわかるのであります。

 出典は、『玉葉』と『明月記』です。それだけ、當時の日記は、歴史的「古記録」として重要な文獻であるわけなんですね。それと、『藤原定家の時代』、ここでも、『明月記』が大活躍してゐます。

 

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