十二月廿日(土)乙丑(舊十月廿九日 曇天、朝小雨、歸路は雨

 

今日は雨が懸念されてゐました。しかし歩いてゐるあひだは降ることもなく、歸りのバスに乗つて走り出したら降り出しました。ですから、見晴らしはよくないものの、行進は良好でした。

ホテルから昨日のゴールの中津川驛に到着後、ストレッチをして九時一〇分出發でした。今日は宿場町中津川を歩くことから開始です。と、思ふ間もなく中津川中山道歴史資料館に着き、館長である安藤さんの懇切な、しかもユーモアたっぷりの説明に、中津川宿が幕末にいかに重要な役割を果たしたかを知りました。それも話だけではなく、樣々な古文書、特に「薩長同盟」の密談を傳へる古文書を目の前にしての解説に、ぼくはいささか興奮、もつと讀解力をつけなければと、餘分な力が入つてしまひました。とりあへず、中山道歴史資料保存会が出してゐる、『街道の歴史と文化』の創刊号から第三号まで購入しました。

さらに宿場情緒ゆたかな町竝みをぬけると、あたりは開けましたが、恵那山は雲に隠れて見えず、昨日眺めておいてよかつたと思ひました。

高札場跡や、變はつた道祖神や一里塚、さらに立場、白木改番所、明治天皇碑など、一見素通りしてしまひさうな史跡に目と心を配りながら歩みつづけました。

恵那山と入れ替はるやうに、右手遙かに、獨立峰が歩みをともにしてゐるかのやうに見えてゐます。これは、昨日、十曲峠の石畳を下りきつた正面の民家のぢいさんに聞いたところによると、笠置山といふのでした。

坂道も相變はらず、いくつも上り下りしました。そのたびに、昨日教へられた呼吸法を繰り返して、乘り越えました。途中で恵那市に入りました。甚平坂を上り詰めた公園で休憩。景色はよかつたですが雪が残って寒々しい所でした。

八十七番目の關戸一里塚跡を過ぎ、突き當たりあたりからは、眼下に恵那市が廣がつて見えはじめました。中央高速道路を跨ぎ、明知鉄道の低いガードをくぐり抜けるとそこが大井宿本陣跡、當時の面影を色濃く殘す家竝みを樂しみながら歩んで、六十九次の浮世繪が欄干に飾られた橋をわたつたら、もう恵那驛でした。

もちろん、街道から外れてはいけませんが、近くの長國寺に、西行葬送碑があるといふので、できれば訪ねたかつたです。しかし、これは、ツアー旅の限界といふものでせう。あきらめましたです。はい。

ゴールの驛には、一時三〇分到着、一九八〇〇歩でした。ストレッチ後、すぐにバスに乗り、中央高速道路の恵那峡サービスエリアで各自晝食となりました。が、ぼくは、やはり疲れがたまつたのでせう、ほとんど食べられませんでした。二時四〇分に出發、新宿には六時五五分、上野には七時三〇分ちやうどの到着でした。

三日間の合計は、六三五九〇歩、だいたい三十六キロから三十七キロほどの行程でした。

 

今日の寫眞:中津川中山道歴史資料館(安藤館長が名刺をくださいました)。三面道祖神。笠置山と中央本線。甚平坂碑(晴れた日には正面に御嶽山が望まれる)。眼下に恵那市。明知鐵道のガード。大井宿本陣。

 




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