正月廿三日(金)己亥(舊十二月四日 晴

 

ぼくが知りたいことのつづきです。

『中仙道を歩く(十九)』の中で、桔梗ヶ原の合戰について語りましたが、その主人公が、後醍醐天皇の皇子の宗良(むねよし)親王でした。父後醍醐天皇の畫いた倒幕と天皇親政の夢の實現のために、生涯戰ひに明け暮れた皇子でした。これは實に酷(むご)いことだと思ふのです。まるで、後醍醐天皇の分身のやうに戰ひつづけたのですから。

しかも、宗良親王の代だけで終りませんでした。その子に、尹良(これなが)親王といふ皇子がゐて、これまた亂世に翻弄され、父親の宗良親王が長年住んだ、信州大河原の近く、といつてもすぐそばではありませんが、愛知縣の足助から飯田へつづく三州街道の途中の浪合といふところで悲劇的な最期をむかへてゐるんです。

それが、先月歩いた妻籠宿はづれの、飯田へ向かふ追分から、清内路峠を經て、三州街道と合流したら、そこからさらに南へ、足助に向かつた山中にあるんです。地圖を見ると、「尹良親王墓」とはつきりと記されてゐます。

實は、この墓が宮内庁の管轄下に置かれたのは、明治天皇が中仙道を巡幸されたとき、三留野宿においてこの話を聞き、天皇が侍從を遣はされて確認したからなんです。ですから、ぼくとしては、尹良親王がなぜ浪合で最期をむかへたのか、そこを知りたかつたんですが、南北朝時代のはうから調べても、結局、宗良親王止まりでたどり着けないのです。

さうしたら、探してみるものです。いつもお世話になつてゐる古典文庫の中に、『浪合記・桜雲記』があるではありませんか! 「南朝の宗良親王の皇子尹良親王にまつわる秘話であり、その誕生から東国各地における転戦と、信州浪合の大河原における最期までが記述されている」といふのですから、ぼくの期待にぴつたりです。さあ、問題は讀んで理解できるかどうかですね。

 

 

 

今日の寫眞・・吉野にある後醍醐天皇と宗良親王(濱松市北區引佐町井伊谷)と伊永親王の墓。後醍醐天皇以下はネットからお借りしました。

 

 

 


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