二月廿日(金)丁卯(舊正月二日 晴

『中仙道を歩く(廿三)』のワード版から、册子版への編集を續けました。文章と寫眞の配置の仕方で惱みます。思ひ切つて寫眞を多くして、それでバランスをとるやうにしてみました。

そのやうにして、二日目がやつと終りました。あと一息です。でも、二十五日の「中仙道を歩く(二十四)」の出發までには仕上げたいです。

 

その作業の途中で、先日買つて來た、和辻哲郎著『鎖國 日本の悲劇』(筑摩書房・一九五一年)をぺらぺら開いてゐたら、改めてビツクリしてしまひました。まあ、手元に置いておくべきだらうなと思つても、今までは文庫でも手を出さなかつたのに、あまりにも安いのと正字正假名本だつたので、その古書然とした姿にもかかはらず入手したのでした。

ぼくは、何か感違ひしてゐたんですね。視野には入つてゐましたけれど、關心の外に置いて敬遠してゐたやうだつたと思ふのです。けれども、今その目次を開いてみたら、何なにと思ひました。まるで、我が國におけるキリシタン史なんです!

前編は全體の五分の二、「世界的視圏の成立」と題して、西洋世界の東洋および新大陸への進出についてですけれど、後編の五分の三は、「世界的圏における近世初頭の日本」、つまり、シャビエルの渡來から、一六三三年鎖國令が出されるまでの、まるでキリシタン史なんです。いやあ、驚きました。書名だけは知つてゐても、全然内容を把握してゐなかつたんですね。反省しました。

 

今日の寫眞・・和辻哲郎著『鎖國 日本の悲劇』(筑摩書房)と窓邊の寅。



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