二月廿二日(日)己巳(舊正月四日 曇天

昨晩はどういふわけか、ネットが開けずに、「ひげ日記」も書き込めませんでした。原因はわかりませんが、今朝開いたら復舊してゐたので、すぐ書き込みました。

また、今日は、少し解放された氣分で讀書ができました。すると、ネットで注文した、前野家文書・加来耕三訳『武功夜話 信長』(新人物往来社)が屆きました。これが活かされるやうに、今度の旅に臨まなくてはなりません。

ところで、きのう差し出された紙ぺら、あれ、結婚式にいい話かもね、なんてあとで妻に言はれました。なあんだと思ひつつ、ぼくの早とちりとわかり、少し寂しいかつたです。

 

今日の讀書・・また北方謙三を讀んでしまひました。最近は、『煤煙』、『擬態』など、解説によれば、「初期・中期のハードボイルド・冒険小説的要素が弱まり、人物の内面の奥深くへと沈潜していく純文学的色彩が強い」といふ作品を讀んできましたが、今日の『抱影』(講談社文庫)は、その延長線に書かれた作品です。たしかに面白ければそれでいいんですけれど、まあ、面白さとともに、作者とぼくが同年齢だからでせうか、共感するとともに、作者が言ひたいことがそこはかとなくわかります。

まづ、主人公が、生活に困らないだけの生きる能力を持つてゐることが特徴ですね。サラリーマンであれ、辯護士であれ、また今日の『抱影』の畫家だつたりしつつも、能力といふか才能が十二分にあつて、それを持て餘してとしか言ひやうがないのですが、むしろ、放棄してもいい、否、人生を終らせてもいい、その切つ掛けをさがして苦惱するといふ、ちよつと贅澤な惱みがあるのが一連の主人公の特徴であります。

その能力のなかには、學生時代にラグビーやら、空手やら、體力を鍛へてきたことも含まれ、それが現實の闘ひで活かされることにもなるわけです。

とともに、それらがまた、他の人間には脅威に感じられる要素で、接觸したりぶつかつたりして物語が進行して行くわけで、ぶつかつた者にとつてははなはだ迷惑な話なのであります。しかし、これなくしては物語にはならない要素でもあります。

さらに、これがぼくには一段と魅力的なんですけれども、生活に餘裕があるから出來ることでもありませうが、主人公が必ずストイック的といふか、身の回りの生活を清潔に整へてゐることです。朝起きてから齒を磨き、シャワーを浴び、朝食はトーストとコーヒー、洗濯物を洗つてどうしまひ、どのやうに収納しておくか、料理の作り方まで語る、その樣子を描くだけで物語れるといふのは、ぼくが出來ないことだけに、心底關心してしまひます。

それも單なるきれい好きではなく、克己的といふか、自分に課するものがあるといふ生き方の見本のやうな生活なんですね。いつか、片岡鶴太郎が、家族から離れて一人で暮らしはじめたといふ話を聞いて、きつと他人に邪魔されないで、自分に課したことをのみを果たしていくといふ生活に憧れたんだらうなと思ひました。ぼくも、できれば・・、いやできません。

 

今日の寫眞・・一枚目は、ベランダに集ふ野良猫たち。左から寅。中央は三兄妹の長男のコヤタ。右は次男のブンゴ。このブンゴが一番活發で、寅に用意した座布團にちやつかり寢てゐます。モモはベランダまで上れないやうです。二枚目は、やつと寢られた寅。靜かです。ところで、三兄妹の母猫がやつと捕獲できたので、避妊手術のために病院へつれていきました。



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