三月廿三日(月)戊戌(舊二月四日 曇り、一時小雨

今日は水上勉の『流れ公方記』(集英社文庫)を讀み終へました。室町幕府最後の將軍、足利義昭の物語でした。ぼくの興味としては、織田信長との關係がどうなのかが知りたかつたんですけれど、むしろ、室町幕府がどのやうにして滅びていつたかがとてもよくわかりました。なにせ、義昭將軍とはいへ、流れ公方と呼ばれるやうに、物語られるのは、“ご動座”の多い逃避行なんです。

内容は、義昭の侍女ぬいの殘した、『ぬい口伝』といふ記録を、ところどころで引用しつつ、その時の状を描いていく物語です。その『口伝』は、しかし、作者の虚構なのださうですが、ぼくは實在するものとして讀んでしまひました。實にうまい趣向です。

また、その現場(史跡)を作者が訪ねながら進行していきますから、紀行といつても過言ではありません。奈良一乘院門跡にあつた覚慶こと義昭は、四歳から二十九歳になるまで仏道ひとすじにいきて來ましたが、そこに、いはば、義昭を將軍としてまつりあげて「京に返り咲きたかった」、細川藤孝(のちの幽齋)と一色藤長、和田惟政らの執念によつて担ぎ出されたのでした。

まづ、奈良から、柳生、笠置、伊賀を經て、「近江油日の和田の里」にいたり、和田惟政の「和田館」に腰を下ろします。餘談ですが、立花京子著『信長と十字架』(集英社新書)によりますと、「和田家文書」が發見されて、「従来埋もれていた、初期の足利義昭(覚慶)の周辺の状況が明らかとなった」といふのですから、リアリティーがありますよね。でも、今はとりあげません。

しかし、この和田館が手狹となり、次いで、琵琶湖畔の矢島野御所、若狹後瀨、越前金ケ崎、一乘谷、美濃立政寺(ここで、信長と初の會見がもたれるのですが、明後日からの中仙道では、その岐阜の町を訪ねます!)、近江桑実寺、京都本寺(ここで、第十五代將軍となるのですが、それも束の間、信長と對立したので、五年の在職のみで、さらに放浪はつづきます)、二條御所、宇治槇島、河内若江、そして紀伊由良の興國寺へと移り、最後は、とはこの小説ではですが、安國寺恵瓊に迎へられて、備後の鞆にうつつたところで終りとなつてゐます。もちろん、後には、秀吉にゆるされて京都に歸ることができて、慶長二年(一五九七年)、秀吉が死ぬ前年まで生きてゐたんです。

かうあげただけでも、ぼくはすべて訪ねてみたい欲望が沸き立つほどです。もちろん、「地圖」を傍らにおいて讀んだんですけれど、今の地圖は古い地名が變へられてしまつてゐるので、確認できないところが多いのです。これは實に困つたものです。

 

晝から弓道にいきました。今日は、夜通つてゐた時にお世話になつた阿部さんが來てをられて、久しぶりでしたけれど、お稽古をつけてくださいました。改めて、「射法八節」の打起し、引分け、そして會のところを正していただいて有り難かつたです。

 

今日の寫眞・・母の花壇と見返りコヤタ。



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