三月廿四日(火)己亥(舊二月五日 晴

今日は、明日出發の『中仙道を歩く(廿五)』の豫習と準備に始終しました。

その豫習のために、美濃立政寺で、信長と足利義昭の初の會見がもたれた、その記録がどこにあるか調べてゐましたら、『多聞院日記』にありました。これも、以前古本市で求めた、だいぶ古びた昭和十年代に出版された本です。が、やつと今出番が回つてきたといつたところですね。

永禄十一年(一五六八年)七月の頁を開きました。

「公方樣去十六日ニ越前ヨリ江州淺井館ヘ御座ヲ被移、同廿二日ニ濃州ヘ御座被移了、尾張上總守(介)御入洛御件可申之由云々、」

流れ流れて「濃州」(美濃・岐阜)にたどりついた公方・義昭と尾張上總守(介)、つまり織田信長が對面し、義昭の上洛に助力することを話し合つた、といつたところでせうか。それを、『多聞院日記』は、數日たつた廿七日の日記に記してゐます。

『多聞院日記』は、奈良興福寺の子院多聞院の院主が書き繼いだ日記です。文明十年(一四七八年)から元和四年(一六一八年)まで書かれてゐます。「奈良の片隅から天下の変わり行くさまを眺めていた僧侶の日記」ですから、樣々な情報網や見聞によつて記したものなんですね。何日か後に記されることになるのは仕方ないことでせう。それでも、まあ、他人ごとのやうに眺めてゐるだけに信憑性は高いかも知れません。


それと、ふと氣づいたのですが、昨日讀んだ『流れ公方記』の、義昭の侍女ぬいが殘した『ぬい口伝』が本物と勘違ひしたと書きましたが、心當たりがありました。それは、『お湯殿の上の日記』です。文明九年・一四七七年から、貞享四年・一六八七年まで、これも代々書き繼がれてゐます。内容は、天皇にそば近く仕へた女官による、内裏の日常生活の日記なんですが、これが、『ぬい口伝』とそつくりなんです。ほとんどひらがなによる文です。

たとへば、覚慶(義昭)が還俗した日、永禄九年(一五六六年)二月十七日の記事です。

「十七日。一てういんとのよりはしめて御けんそく(還俗)ありて。やしまより御れいに・・・御むまは代にて三百疋まいらせ候よし。くわんしゆ寺中納言申さるゝ。めてたきとてないし所へも御かくらまいり候。・・・めてたきとて御さか月二こんまいる。云々」。

つまり、『日本史総合年表』では、「覚慶、還俗(足利義秋)し、御馬代等を朝廷に献じる」とあるところですが、これが『ぬい口伝』の書き方とそつくりでした。水上さん、きつとこれを下敷きにしたのだと思ひます。

 

ところで、一昨日は、米沢藩「高札」集を抜き書きし、一部を翻刻してみましたが、實は、この、寛文四年(一六六四年)十二月の「切支丹宗門の事」の裏付がとれました。同じ年表に、「一一・二五 幕府、諸大名にキリシタン穿鑿を命じ、転宗者の登録制を実施」とありました。これを受けての高札だつたんですね。

また、ぼくが以前作成した、「キリシタン年表」によると、この年に、「尾張で信者二〇七人處刑」と記されてありました。歴史つて過ぎ去つていくものなんですけれども、いい思ひ出が残るやうな歴史を、ぼくたち自身がつくつていくことが必要であると、つくづく思ひました。負の遺産を残さないやうにしたいです。それにしてもね・・。

 

今日の寫眞・・がんばれ沖縄!