三月廿八日(土)癸卯(舊二月九日 晴

 神保町で、「春の古本まつり」がはじまりました。まだ疲れがとれきれてをらず、這つてでもと思ひましたが、難なく歩いて行つてくることができました。まあ、古本屋めぐりがぼくの健康の秘訣のやうなんです。すみません。

 

今日の讀書・・鵜沼宿の坂井脇本陣跡前には、芭蕉の句碑がいくつもありました。芭蕉さん、その脇本陣に三度も滯在したことがあるんださうで、その前でぼくも記念寫眞を撮りましたが(二十五日の「日記」の寫眞がさうです)、實は、この鵜沼宿からといふか、犬山藩から芭蕉に弟子入りした人がゐるんです。犬山藩士だつた内藤丈草(ぢやうさう)といふ人なんですが、ぼくは知りませんでした。丈草とも丈艸とも書くやうです。

そもそも、俳句や和歌に弱いぼくですから、芭蕉さんにどんなお弟子さんがゐたかなんて、かすかに、其角とか、去来とか許六とか數人の名前が浮かんでくる程度です。何でも、“蕉門十哲”がをられるやうで、丈草さんは、その中に入つてゐるんですね。いや、少し調べたら、さらに、其角、嵐雪、去来とともに”四哲”の一人といはれてゐるんです!

それで、さらに調べてみると、芭蕉さんが鵜沼宿に滯在したときに出會つて、それで弟子入りしたのかと思つてしまひますけれど、そのときには、會つてもゐないやうです。

その經緯ははぶきますけれど、芭蕉が、「奥の細道」の旅が終つた元禄二年(一六八九年)の暮れ、古くからの知人の紹介で、去來の落柿舎において入門したんです。

丈草さん、芭蕉さんの信賴が格別に厚かつたやうで、入門早々なのに、有名な、『猿蓑』の後書きをまかされてゐます。それも漢文です。もとは武士ですから、漢文といふか、漢詩を書くくらゐは御手の物だつたでせうね。

それと、もつと氣になつたのが、芥川龍之介が、丈草さんをだいぶ贔屓にしてゐたやうなんです。『枯野抄』をご存知かと思ひますが、芭蕉の臨終の場面には、その姿があたたかく描かれてゐます。また、柴田宵曲著『蕉門の人々』によれば、「芥川龍之介氏が蕉門の作家の中で最も推重していたのは内藤丈艸であった」と言ひ、龍之介の文章を引用してゐます。

「蕉門に竜象の多いことは言うを待たない。しかし誰が最も的々と芭蕉の衣鉢を伝えたかと言えば恐らくは内藤丈艸であろう」。

といふわけで、柴田宵曲著『蕉門の人々』(岩波文庫)の「丈艸」と、堀切実著『芭蕉の門人』(岩波新書)の「丈草」とを讀みました。さらに、『風俗文選』(岩波文庫)にも、去來が、その死を悼んだ、「丈艸誄(るい)」があります。

 

今日の寫眞・・古書會館の地下へ下りる踊り場の掲示。神保町「春の古本まつり」の光景。それと、今まで本の詰まつた本棚が竝んでゐた二階の半分が、いつのまにか喫茶室に變はつたお店。最後は、「丈草画像」(堀切実著『芭蕉の門人』から借用)。



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