三月卅日(月)乙巳(舊二月十一日 晴

今日は、大事を取つて、弓道は休みました。それで、休み休み、『中仙道を歩く(廿五)』のために、二十六日の未完の日記のつづきを書きました。

以下、三月二十六日の「日記」のつづきです。

 

舊街道の町竝がつづきます。その家竝みで、氣にはなつてゐても、電車の線路も通過する車輌も見えません。でも、古い家が多く見られ、落ち着いた歴史を感じさせる雰圍氣の街道です。それがとぎれることなくつづいてゐます。途中、當時の藩主が陣屋を置いた切通陣屋跡碑と、そのあとに祀られた切通觀音を訪ねました。

また、左手に、五軒長屋かと思ひきや、戸建てではありましたが、まつたく同じ作りの古風な民家が目を引きました。さらに、左右に神社やお寺が目立ちます。さういへば、「親鸞聖人御舊跡」と刻まれた石標が立つお寺がいくつも見られますね、何か、特別に由來があるのでせう。そんなことを思つてゐたら、急に幅廣い幹線道路に出くはしました。

岐阜東バイパスといふらしいです。と、ふと道路に沿つて右を眺めると、道の眞ん中にそそり立つ山が現れ、その頂上に小さなお城が見えるではありませんか。ぼくは、思はず、リーダーに、あれが、あの、これから行く岐阜城ですか、と聞きましたよ。すると、さうですよと氣のない返事です。いやあ、見つけたからいいものの、みなさんキョトンとしてをられるではありませんか。でも、ぼくはもう發見した喜びでわくわくでした。

それで、バイパスに分斷されたとはいへ、まだまだ舊道はつづきました。すぐに、一〇五番目の細畑一里塚が現れ、さらに追分です。分岐點には延命地藏堂があり、その角に、明治九年一月に建てられたといふ、「伊勢名古屋ちかみち 木曾路 西京道」と、それぞれ三面に刻まれた、伊勢道追分の道標が立つてゐました。

 

さらに、何々? 大正天皇が休息したといふ「御日蔭の松」がある八幡宮にさしかかりました。でも、ちやうど宅急便の車に邪魔されて、その標石も松もわかりませんでした。それにしても、天皇さんたちはあちこち旅をしてゐるんですね。明治天皇だけではないんです。昭和天皇さんも戰後あちこちを訪問されたといひますけれど、これは、天皇の存在が忘れられないため、國民の心をそれによつてつなぎとめ、また安心してもらはうとするために担ぎ出された策略なんでせうが、バカな軍人や政治家の尻拭ひだけがお役目ではないと思ふのですがね。

次いで、領下往還南なんていふ歴史を感じさせる名前の丁字路には、その名にふさはしい、黑々とした長屋門が横たはつてゐました。が、またそこに腹の奥底からかき回されさうな爆音が響いたと思ふやいなや、五、六機かたまつた編隊ジェット機が、ぼくたちを中心に輪を描くやうに左後方から右手後方へと、それも白い煙を噴射しながら飛び去つていきました。ときによつては、賴もしい見方なんでせうが、不必要な紛爭や戰爭に參加するんでは、かへつてぼくたち庶民を危險にさらすわけで、こんな物騒なものはありません。

そもそも、かつての日本の軍隊は、國民を助けるため戰つたのではなく、軍人をはじめ政治家や財閥の既得權益を守るためだけの存在でした。最近、安倍首相が、自衛隊を稱して「わが軍は」と發言したことは、まさに、衣の裾から(國民を死地に追ひ遣ることに少しも痛みを感じない)抜き身の劍がちらりと見えた瞬間ではないでせうか。

 

また熱くなつてしまひまして、ぼおつとしてゐたら、遠くに高架線が見えてきました。あれが東海道本線のやうです。が、なんとも味氣ないですね。ここまで舊街道を歩いてきましたが、昔の家や舊家がたくさん殘つてゐていい雰圍氣だつたのに、またいきなり現實に引き戻された感じです。近づいて、その高架をくぐり抜けましたが、ここだけ何か大切に培はれてきたものが抜け落ちてしまつた、といふか、切り落とされてしまつた、そんな殺伐とした氣持ちをもたせる場所になつてゐました。いや、これほんと!

それにくらべて、つづいてやつてきた、名鐵名古屋本線の茶所驛の昔懐かしいこと、ちやうど上り豊橋行の電車がやつてきて、やつと氣に入つた寫眞を撮ることができました。

 

遮斷機が上がり、線路を渡つて行くと、あれ、みなさんが見えません。と思つたら、右に曲がつたやうです。急いで追つて行くと、その途中に立ち現れたのが、「御鮨街道」の道標でした。そこは丁字路で、左手が名古屋・東海道方面に通じる街道なんでせうね。岐阜街道とも、尾張街道とも言ふやうです。さう、長良川で獲れた鮎の「熟鮨(なれずし)」が有名で、德川將軍家にも獻上されたのだと、どこかの參考書にありました。それですね。

追ひついてみれば、あれあれ、リーダーさん自らおだんごを調達してくださつて、これは珍しいことです。ありがたいですね。その店を見ると「だんごや」とありますから、そのまんまですけれど、これも名物なんでせうか。新荒田川にかかる加納大橋のたもとの小公園で、みなさんと休憩していただきました。でも、ぼくは、だんごより花で、すぐそばを通過する電車にばかりに氣がとられてしまひました。首をひねると、伊吹山が雪をいただいてくつきりと眺めることもできました。ゴールの岐阜驛までは、あと一息のやうです。(未完)

 

 

妻が、珍しく新本を買つてきて見せるではないですか。例の、小津安二郎の正確な言葉が知りたかつたからだといふのです。それは、ぼくの『中仙道を歩く(一)』の冒頭で使はせていただいた言葉でもありますが、ぼくも曖昧なまま書いてしまつたので、ここで、正確な言葉を寫しておきます。

それは、小津安二郎の、「どうでもいいことは流行に従い 重大なことは道徳に従い 芸術のことは自分に従う」といふ言葉です(春風亭小朝『言葉の嵐』(筑摩書房)より)。

 

今日のピクニック・・新しいメレルの靴でと思つたのですが、妻がまだだめといふので、いつもの黑のメレルで歩きました。夕食後、八時二〇分に出て、九時五〇分に歸つてきました。三五〇〇歩でした。時間がかかつたのは、TSUTAYAに寄つてDVDをあれこれ選んだのと、古本屋に寄つたためです。でも、大久保利謙編『近代史史料』(吉川弘文館)が一六〇圓で入手出來たのはうれしかつたです。

 

今日の寫眞・・今日の寅。ガラス越しではなく、はじめて直に撮ることができた瞬間です。それと、夜のピクニックで通りかかつた千鶴幼稚園の櫻です。



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