三月卅一日(火)丙午(舊二月十二日 晴

今日も、昨日につづいて、二十六日の未完の日記を書きつづけました。

以下、また三月二十六日の「日記」のつづきです。

 

おだんごを食べ終り、また民家がつらなる街道を歩き出しました。もうすでに市街地の中ですね。ふと足もとに目を向けると、排水溝の蓋に、「御鮨街道」と陽刻されてあるので、しばらくは中仙道と重なるのかも知れません。それにしても、いやにいくつもの角を曲がります。これも、外敵防備の枡形としたら、ばかに大がかりです。だからでせうか、その角かどに道標がたつてゐます。はじめの左折する角には、「右岐阜谷汲 左西京」が見られます。だけれど、ゴミ袋を背負つてゐるのはいただけませんね。

小さな川を渡りました。その先には、「中山道加納宿番所跡」碑があつて、また左折し、正面の、これまた親鸞ゆかりの善徳寺を右折すると、廣い通りを斜交ひに渡ります。ところが、そこにも「親鸞聖人御舊蹟」の專福寺。さらに進んでいくと、こんどは左折し、そこの角には、「左中山道 西京道」が見られました。

もういくつ角を曲たでせうか。次はまた川を渡りました。淸水川ですね、櫻の花が咲きはじめたところのやうです。土手沿ひに遊歩道があるので、これからのひとときは櫻を愛でる人々で賑はふのだらうなと思つて振り向くと、橋のたもとに、「高札場跡」の説明板が立つてゐました。今も昔も人通りが多いところなんですね。それもさうでせう、目の前の交差點が「加納城大手門跡」でした(注・・)。

 

しかし、ぼくたちは中仙道に忠實ですから、加納城跡は見向きもせずに(とほほ!)、その角を右折して、かつての町屋がつらなる古びた道に入りました。まあ、開発から取り殘された、路地にしては廣いですが、その裏道を進みました。たしかに、「旧加納町役場」が建つてゐました。でも、それは廃屋寸前の建物ですが、一應、「岐阜市が誇る歴史的建造物」として保存されてゐるやうです。

以上、振り返つてみると、美味しかつたおだんご屋の曲がり角を第一の枡形とすると、ここにくるまでに、六つの枡形があつたのですね。お江戸日本橋から歩いてきて、これ、最高の数ではないでせうか。

 

そこからはまつすぐな町竝です。宿場のメインストリートといつたところですね。途中に、「左甚五郎とウナギの欄間」で有名な、創業元和元年(一六二〇年)の舊旅籠二文字屋さんがありました。今は鰻屋さんのやうです。どんな鰻なのか、鰻好きのぼくには魅力的な店でした。と、道路脇に、「当分本陣跡」碑がぽつんと立つてゐました。「当分本陣」なんてはじめて聞きましたが、それは、きつと、しばらくの間、とか、假にといふことではないでせうか。つまり、本陣や脇本陣だけではまかなへないくらゐに賑はつた宿場だつたんでせうね。

 

つづいて、本陣跡碑。普通の家の玄關先に碑が立つてゐるだけです。ただ、ここには皇女和宮さんが宿泊したさうで、その歌碑がそのまた脇に立つてゐました。「遠ざかる都としれば旅衣一夜の宿も立うかりけり」と、そのときの心境を詠つたものでせうが、直筆なので、ちよいと讀むのに苦勞です。

さらに、脇本陣が、加納天満宮參道角に建ち、いきな黑塀に圍まれた昔の面影が殘されてありました。が、もう一軒現れた脇本陣は、民家の玄關先の植込みの中に跡碑が半ば隠れてあるばかりでした。

すると、岐阜驛前通りに出ました。今回は、ここで中仙道の旅は終りですね。ただ、岐阜驛へと右折しましたので、ゴールは、驛にしておきます。一二四三〇歩でした。時間は一一時二〇分。商店街もあるので、二〇分ばかり休憩となりました。

ぼくは、岐阜城の上で食べるために、川野さんたちとともにハンバーグを買ひ求めました。(未完)

 

今日の寫眞・・「御鮨街道」と陽刻された排水溝の蓋と、JR岐阜驛です。



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