四月三日(金)己酉(舊二月十五日 曇天、強風  

 

今日は、先日、川野さんからの情報で知つた、「大関ヶ原展」に行つて來ました。場所は、江戸東京博物館です。ぢき「中仙道を歩く」旅で、関ヶ原を通るので、そのために、どのやうな具會ひに戰鬪があつたのかが知りたかつたからです。ところが、合戰はたつた一日で決着がついてしまつたわけですが、たくさんの古文書が展示されてゐて、むしろその前後の諸大名との驅け引きに興味がひかれました。

 

今日の讀書・・昨夜、萩原延壽著『馬場辰猪』(中公文庫)を讀みはじめたらとまらなくなり、今朝起きるのがつらかつたです。馬場辰猪(ばばたつゐ)は、福澤諭吉のもとで學び、英國へ留學、日本では受け入れられず、アメリカのフィラデルフィアで、弱冠三十八歳で客死した「自由主義の先駆者」でありました。

馬場辰猪は、中江兆民とも親しく、穏健な啓蒙活動家でしたが、「しだいに自由民權運動の急進的な指導者」になつていくのです。

まだまだ途中ですが、敎へられたのは、明治六年、森有禮が、『日本の敎育』を發表したときのことです。森有礼は、その中で「英語採用論」を展開し、日本語のやうな「脆弱で不確実なコミュニケーションの手段」に賴つてゐることはできない、と主張したとき、ただちに反論したのが馬場辰猪でした。彼は、「改善や改良が不可能なほどに、日本語は不完全で貧弱なものだ」といふ森有礼の意見に反論して、『日本語文典』を書いたのです。

「現在の日本語も、英語やその他の発達した言語のように、一般的な法則によって支配され、合理的な文法をもった言語」であることを示すために、「英語の文法に倣って、日本語の口語文法を再構成し、練習問題まで付した、本文九十二頁の文典を書き上げたので」ありました。偉いと思ひました。單なる反對ではないのです。『日本語文典』を書いて、正々堂々と反論したんですからね。

しかし、皮肉なもので、そのやうな馬場辰猪が日本の國では受け入れられず、日本語をやめて英語にしてしまへと言つた森有禮が受け入れられ、かつ立身出世をとげるなんて、まつたく日本人の精神の愚かさを感じざるを得ませんでした。

そもそも、板垣退助と自由民權運動のことを知るために調べやうとしたんですが、ただ真つ向から調べても面白くないので、いつものぼくのやりかたですが、搦め手から攻めることにしたのです。中江兆民でもいいかなとは思つたんですけれど、だいぶ齒ごたえがありさうです。それで、以前たまたま讀んだ、萩原延壽著『自由の精神』(みすず書房)の中の、「馬場辰猪の墓」にたいへん心を打たれたので、これで行こうかと思つた次第です。

「馬場辰猪の墓」によれば、晩年、「何かが馬場を駆り立てていた。いわゆる藩閥政府の弾圧を受けて解体してゆく自由民権運動に対する失望もあつたろうし、言論の自由を海外の地に求める強い希望も動いていただろう・・・明治十五年九月、自由党の領袖板垣退助の洋行問題を激しく批判して党を去つてから、・・客死するまでの彼の歩みには、痛ましいほどの緊迫感がある」。そして、「明治二十一年(一八八八年)十一月一日の夕刻、同地のペンシルヴァニア大学病院の一室で、彼はその生涯を閉じた。病名は結核で、享年三十八歳」。「しかし、死期が迫った馬場にとってせめてもの慰めは、彼の最後の英文の著述『日本の政情』が生前に刊行されたことであったろう。・・彼の遺著『日本の政情』の表紙には、ローマ字にして日本の言葉が刷り込んであった。『頼むところは天下の輿論、目指す仇は暴虐政府』─、馬場は最後まで自由民権の戦士であった」。

ついでに、昨夜、『中江兆民集』(改造文庫)を出してきて、たつた四頁の、「馬場辰猪君」を讀んでみました。中江兆民を、ぼくははじめて讀みましたよ!

 

今日の寫眞・・江戸東京博物館と「大関ヶ原展」看板と、買ひ求めた『合戦図解リーフ』。それに、萩原延壽(のぶとし)さんの著書、二册。

 



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