四月四日(土)庚戌(舊二月十六日・望 曇天

 

やはり昨日は疲れたやうで、今朝も寝坊してしまひました。

以下、どうにか書き續けてゐる、三月二十六日の「日記」のつづきです。

 

再び、岐阜驛のコンコースに集合し、驛北口からバスに乘つて岐阜城に向かひました。十分ほどでしたでせうか、右手に豐かな木々におおはれた山が見えてきたかと思ふと、その懐に入るかのやうにして、岐阜公園までやつてきました。が、すぐには山には上らず、そこからまづ、正法寺の大佛を見に行きました。

ぼくははじめ、正法寺と聞いて、例の、一條兼良(一四〇二~一四八一)さんが、岐阜にやつてきて宿泊した、その正法寺だと思つてしまつたんですけれど、別のお寺でした(注・・)。その正法寺は、先ほど通つてきた、「加納城大手門跡」の南、加納城跡を通り越して、さらに新荒田川を越えたあたり、現在では正法寺町として町名が殘る、そのあたりにあつたやうですけれど、すでに消滅してしまつてゐます。

ところで、それにしても、こちらの正法寺の大佛は見事でした。今まで知りませんでしたし、聞いたこともありませんでした。連れてきていただいてよかつたです。岐阜大佛とも呼ばれ、奈良と鎌倉の大佛とともに、日本三大佛の一つなんださうです。高さを比べると、奈良東大寺の大佛が一四・九八㍍、鎌倉大佛が一一・三五㍍、に對して、一三・六三㍍ありますから、たしかに大きいですね。しかし、體重は最も輕いと思ひます。といふのは、乾漆佛だからです。「大イチョウを直柱として、骨格は木材で組み外部は良質の竹材と粘土で造られ、その上を一切経で糊張りし漆を塗り金箔を置いたもので、胎内には薬師如来がまつられています。」と説明にありました。

この金鳳山正法寺は、京都の宇治黄檗山萬福寺の末寺で、「寛政の頃、第十一代惟中和尚は、相次ぐ大地震や大飢饉に心を痛め、これらの災害で亡くなった人々の菩提のために、大釈迦如来像の建立をはかる。・・実に三十八年の歳月を費やして完成・・。・・胎内として、薬師如来像が安置されている。この薬師如来像は、室町時代、美濃国厚見郡革手(現在の岐阜市正法寺町)の革手城の城下にあった、土岐氏氏寺の霊正山正法寺(現在は廃寺)の本尊である。平安時代の円仁(慈覚大師)作との伝承がある。開眼供養の際には、織田信長居住以来の盛儀だったと伝えられている」。

胎内佛の藥師如來像が、現在の正法寺町にあつた、つまり文明五年(一四七三年)に、一條兼良さんが宿泊した、その正法寺の本尊であつたといふのですから、戰火で燒失したさいに持ち出されたのでせう、無事でよかつたです。でも、それを見ることはできませんでした。

以上、だいぶ詳しく調べてしまひましたが、歴史の濃いお寺であり大佛さんなんですね。

さて、岐阜城です。正法寺からロープウエイまで公園内を歩いて行きました、が、いや、その途中で、例の板垣退助さんに出會つてしまつたのであります。銅像があるとは聞いてゐましたが、どこにあるかはわからず、ちよいと心配だつたんですけれども、まさか、通りすがりにお會ひするなんて。だつて、みなさんは素知らぬ顔で歩んでいかれてしまつてゐます。

さうです、ぼくが、暗殺されたとばかり思ひ込んでゐた、あの「自由は死せじ」の板垣さんですよ。ぼくは、遅れるのを覺悟して銅像のもとに近よりました。

明治十五年(一八八二年)四月六日のこと、自由党党首板垣退助が、現在のこの岐阜公園にあつた神道中教院といふ建物で、自由党懇親會の演説を行ひ、「午後六時半頃、板垣は帰途に就こうと中教院の玄関の階段を下りる。その時、『将来の賊』と叫びながら相原尚が、刃渡り九寸(約二七㌢)の短刀を振りかざし板垣に襲い掛かる。相原は板垣の胸を狙い、左胸を刺す。板垣は相原の腹部に肘で当身を行い(板垣は呑敵流小具足術(柔術)を会得していて)怯ませるが、再び相原は襲い掛かる。板垣は短刀を持った手を押さえた際、短刀で親指と人差し指の間を負傷する。二人がもみ合うのに気づいた内藤魯一が駆け寄り、相原を押さえ込む」。

と、こんな具會ひで、命には別状はありませんでしたが、「その場にいた者たちは第二の刺客に警戒しつつ板垣を連れ、近くの民家に避難する。通報を受けた岐阜警察署から警察医が派遣され、診察をする。その結果、命に別状は無いが、左胸、右胸に各一ヶ所、右手に二ヶ所、左手に二ヶ所、左頬に一ヶ所の、計七ヶ所に傷を負っていた」。

ところが、「同日午前、内藤魯一の連絡を受けた愛知県病院長後藤新平が板垣の治療の為に訪れる。板垣は後藤新平を政府からの刺客と勘違いし会う事を断るが、まわりの者に説得されて治療を受け正午過ぎに治療を終える」。さらに、「翌日に明治天皇勅使来訪との電報を受ける。一部の自由党員は、刺客が政府によるものと思い、勅使を追い返す事を訴えるが、板垣はこの事を咎め、勅使を受け入れる事を決める」(注・・)。

このやうに、刺客が政府から差し向けられたと思つてゐたといふところが、その時代の状況をよく表してゐると思ふのですが、先を急ぐので、この後の考察はいづれのことといたしませう。

ちなみに、この板垣退助像は、その三十六年後(大正七年頃)に建てられましたが、戰時下において供出され、昭和二十五年に再建されたものださうです。板垣さんも、もう少し、馬場辰猪さんらの意見も聞いて、自由民權運動に力を入れてゐたならば、自分の銅像を戰爭の武器のために供出されなくてもすんだかも知れませんよ!

あれれ、みなさんさつさと行つてしまひました。かつまた、織田信長の居館跡をも素通りです。こんどはぼくも素通りして、金華山ロープウエイ乗り場に急ぎました。(未完)

 

今日のピクニック・・夕食後、皆既月食を見に家を出たところ、どんよりした雲に遮られて、月光の明かりすら見えませんでした。そのかはり、氷川神社の夜櫻をたつぷり見ることができました。二五〇〇歩でした。

 

今日の寫眞・・今朝の新聞のコラムと夜櫻。

 


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