四月五日(日)辛亥(舊二月十七日 終日小雨

 

以下、やつと、三月二十六日の「日記」が書き終りました。これは、「日記」といふより、もはや紀行そのものですが、書けるときに書いておかなければなりません。ですから、途中で省略などはしませんでした。ただ、一日目の「日記」は、ホテルで書いたそのままの原稿ですから、付け加へることはいくつもあります。

 

ロープウエーは十五分おきに出てゐるやうですが、ぼくたち團體のために臨時便を出してくれました。全員が乘れる廣い車内(?)です。とても急傾斜で、走り出すと、ずんずん景色が廣がつていきました。みるみるまに到着しました。乘つてゐた時間は、三、四分足らずでした。

降りたらすぐに、集合時間が決められ、あとは自由時間になりました。すでに午後一時に近いので、レストランに直接向かはれる方もをられましたが、ぼくは川野さんたちと、まづは岐阜城の天守閣をめざしました。

岐阜城なんて、聞いてはゐましたが、詳しいことは知りませんでした。それで、今回のこの旅のために、織田信長との關係を調べてみましたが、ロープウエーに乗る際にいただいた案内パンフレットが的確なので引用します。

「岐阜城は、かって稲葉山城と称していました。金華山山頂にはじめて砦を築いたのは、鎌倉幕府の執事二階堂行政と伝えられています。その後、美濃の守護土岐氏の筆頭家臣斎藤氏が居城するものの、下克上により斎藤道三の手に渡ります。特に岐阜城の名を天下に示したのは、永禄十年(一五六七年)八月、織田信長が、道三の孫である龍興を倒し、この地方一帯を平定してからですが、地名も「井の口」を「岐阜」と改称し、後に、安土城が建てられるまでの約九年、天下統一の本拠地とされました。

しかし、慶長五年(一六〇〇年)八月、関ヶ原合戦の前哨戦で、信長の孫秀信が西軍に味方したため、東軍に攻められて落城。翌年には廃城となり、天守閣、櫓などは加納城に移されました。現在の城は、昭和三十一年(一九五六年)七月、鉄筋コンクリート造り、三層四階建てとして復興されたものです。」

 

天守閣まで上りました。じつに壮大な眺めです。なにせ、標高三二九㍍の金華山山頂に聳え立つ岐阜城ですからね。歩いてきた鵜沼、各務ヶ原方面をはじめ、木曾川も、眼下には鵜飼で有名な長良川、遙か彼方には、例の笠置山や恵那山、白く雪を頂いた御嶽山も眺望できました。北から西の方向には、乗鞍、日本アルプス、伊吹山がくつきりと見えました。

天守閣の中は、展示室になつてゐて、信長の像やその他の武將の肖像畫、古文書、武具などがありましたが、その中でもとくに、例の「天下布武」の印が印象に殘りました。

出てから、資料館にも寄り、そこで、「天下布武」のゴム印があつたので、記念に用紙をいただいて押印してきました。それから、景色の良いベンチに陣取つて、川野さんらと晝食をいただきました。ぼくは、驛で買つてきたハンバーグに齧りつきました。

 

つづいて、もう下山にかからなければなりません。が、ただでは下りられません。岩盤を刳り抜いてつくられた井戸跡、といつても雨水を貯めた貯水槽のやうですが、そこを訪ね、傳太鼓櫓跡の崖によじ登り、レストランでソフトクリームを食べてから下りロープウエーに乘りました。

すでにみなさんはバスの回りに集合してゐます。織田信長の居館跡を覗いてみたかつたんですけれど、斷念しました。二時四〇分、バスは岐阜公園をあとにして名古屋驛に向ひました。(完)

 

今日の讀書・・習字を習ひ始めたので、「入木道(じゆぼくどう)三部集」のうちの、『入木抄』(書論双書5)を讀みはじめました。昨年8月に、そのうちの、『夜鶴庭訓抄』を讀んだんですが、それはいはば、古文書とくづし字の勉強のためであつて、内容はまつたく理解できませんでした。でも、こんどは違ひます。現實味を帶びてゐますからね。もちろん、古文書とくづし字のお勉強も兼ねてゐます。

『入木抄』は、南北時代(文和元年・一三五二年)に、(五十五歳の)尊圓親王が、(弱冠十五歳の)後光嚴天皇のために書いた書道上達のための心得なんです。ぼくにぴつたりですね。

 

今日の寫眞・・「天下布武」のゴム印と、岩波文庫版『入木道三部集』。それと、購入した日に生前のラムとともに撮つた『入木抄』と、その本文。

 



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