二〇一五年四月(卯月)廿一日(火)丁卯(舊三月三日 曇天

 

いよいよ明日は、「中仙道を歩く」の第二十六回目。加納宿(岐阜市)から赤坂宿(大垣市)までを、一泊で歩きます。そして、その次の五月は、赤坂宿から醒井宿までを二泊三日で、大きな山場の關ヶ原を通過します。歴史紀行も、うかうかしてゐられません。・・・

 

ところで、旅の二日目のゴールした後、「日程表」では養老公園(自由散策)になつてゐるんです。が、第一陣に參加した方の報告によれば、二日目が雨だつたので、養老公園ではなく、名古屋城見學だつたさうなんです! それを聞いて、ぼくはすぐ、リーダーに、第三陣も名古屋城に行きたい、と泣きついたのですが、返事がありません。

  明日はどうやら晴のやうですから、名古屋城はだめかも知れません。犬山城に、岐阜城に、名古屋城とつづけて行けたらよかつたのに、實に殘念です。なんて、まあ、勝手なことを考へ考へ、養老の瀧のあたりを調べてゐたら、大變な歴史に遭遇してしまひました。

 木曾三川といつたら、木曾川、長良川、揖斐川ですが、これらの洪水によつて濃尾平野の人々は大變に苦しみ、その嘆願の結果、江戸時代に「分流工事」がなされたのです。その「お手伝い普請」にかりだされたのが、薩摩藩だつたのです。その際に引き起こされた事件を、「宝暦治水事件」と言ふのださうですが、ぼくは本當に初耳で驚きました。

以下、ネットからお知恵拜借。

 

宝暦治水事件・・江戸時代中期、幕命による木曽川治水工事で薩摩藩が多くの犠牲者を出した事件。宝暦三年(一七五三年)十二月、幕府は薩摩藩に美濃・伊勢・尾張の川々御普請の御手伝いを命じた。薩摩藩は家老平田靭負(ひらたゆきえ)を総奉行に任じ、藩士以下約一〇〇〇人を派遣した。工事は木曽・長良・揖斐三川に及び、一七五四年二月着工、一七五五年三月竣工した。一九三村にわたる広域で、四工区に分けられ、幕府の厳しい監督のもと、春の応急工事と秋の本格工事が行われた。油島(あぶらじま)締切堤や大榑(おぐれ)川洗堰(あらいぜき)の難工事のため、工費は一四万~一五万両の予想をはるかに上回り、四〇万両に及んだ。藩は上方(かみがた)から約二二万両借り入れ、残りは藩内の増税と借り上げでしのいだ。この工事は藩財政に壊滅的な打撃を与えたが、幕府の意図もここにあった。以後、奄美大島などの黒糖搾取が強化されたのもこのためである。幕府の横暴、過重な労働から工事の犠牲者は割腹五十五名、病死三十四名、計八十九名(うち四名は幕府側)に及び、平田靭負は五月検分引き渡し終了後、自刃した。のちに彼らは、この工事により多大の恩恵を受けた濃尾)平野の輪中(わじゅう)地帯の人々から薩摩義士とよばれ感謝されるようになった。

 

これらの川の周邊に、薩摩義士の墓が多いのにもびつくりしました。ぼくが地圖で確認できただけで、十四カ所ありました。そして、その一つに、ぼくは偶然出會つてゐたのでした。

 

今日の寫眞・・犬山城入り口に建つ薩摩義士の墓。たまたま撮影しておいたものですが、こんなに大變で重い歴史が潛んでゐたとは思ひもよりませんでした。もう一枚は、改修前後の圖面。

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