四月廿三日(木)己巳(舊三月五日 晴、風があつて心地よい

 

中仙道を歩く第二十六回の二日目、樽見鐵道美江寺驛から出發です。街道にもどつて歩きはじめると、昨日とは違つて、すぐに史跡の數々に出會ひました。

まづ、谷汲追分道標、つづいて一〇七番目の美江寺の一里塚跡、それに、自然居士之墓なんていふのがありました。また、その看板の寫眞が扮裝したモデルなんでせうが、ぼくにそつくりなので、みなさんと大笑ひしてしまひました!

 さらに、元禄九年創業の造り酒屋の布屋さん。濃尾地震にも生き殘つた宿内唯一の商家ださうです。そしてその先の美江神社で、ちよいと早いトイレ休憩。木陰がありがたい廣い境内でした。

つづいてその舊美江寺城主和田氏の末裔がいとなんだ庄屋の和田家の前を通り、本陣跡碑、そして墨俣道道標の角を右に曲がりました。直進すると、例の、木下藤吉郎が一夜城を築いたといふ墨俣へと向ふのですね。

とてもいい農村風景です。小川といふにはちと大きい川ですが、水量豐かに曲がりくねりながらゆつくりと流れていくさまは、繪になるやうです。柿の木畑が多いのも、一興を添へてゐますね。さうでした、このあたりは、富有柿發祥の地であるとどこかに書いてありました。また、その若葉が日に照り輝いて美しいのです。

あたりは、田仕事をはじめたばかりなんでせう。所々耕耘機がはいつてゐました。たしかに豐かな穀倉地帶のやうです。その先には揖斐川の堤防でせう、廣々として、贅澤をいへば日蔭がほしいくらゐ良い天氣です。ですからでせうか、この農道と言ひ換へてもよい眞つ直ぐな街道には、かつて松竝木があつたさうなんです。それが、戰爭のときに、松の油を採るために切り倒されたとか聞きましたけれど、本當に戰爭には困つたものです。

 

鷺田橋を渡り、川下へとたどり、右に折れ、さらに西に向つて歩むと、この「呂久の渡し」の船年寄を勤めた、馬淵家長屋門の前を通りかかりました。

そこの角を曲がつた所が、小簾紅園(おずこうえん)と呼ばれる、「和宮御遺跡」でした。あの皇女和宮さんゆかりの公園のやうです。

小簾紅園を出たところの流れがもとの揖斐川なんて想像もできませんけれど、その豊後川を過ぎ、さらに歩いていくと、平野井川の新橋を渡ります。ここで瑞穂市とお別れし、大垣市に入りました。

春の野道をゆけば、なんてほのぼのとするやうな田舎道を進んで行くと、先頭の方々が、橋を渡つてまたもどつて來るんです。いやあ、なんともそこに一〇八番目の柳瀬の一里塚跡が、いはば、街道の對岸にあつたんです。

またもとの街道にもどれば、こんどは、その高い堤防を跨ぐやうにして、川の外の土手下の道を北に向つて進みました。すると、「大垣輪中坂下水防倉庫」が目の前に現れ、ぼくはすべてを悟りました。右手のそびえる高い土手は、輪中の堤防だつたんです。もし、堤防が決壊でもしたら。それこそ大洪水になつてしまふのでせう。さういへば、輪中について、學校で學んだことがありました。

 

その途中で、こんどは左折し、眞西に向かひました。伊吹山を正面に、しかし、單調な農村地地帶の街道です。所々に、道標が建ち、素戔嗚社が祀られ、秋葉神社、また、谷汲山華寺への參道の角に、聖觀世音菩薩が道標を兼ねて建つてゐました。でも、それと氣づかなければ、みな通り過ぎてしまふ所ばかりですね。

養老鐵道東赤坂驛の踏切を渡り、そのあたりから人家が連なり、宿場のはづれでせうけれど、町竝に入つてきました。それでも川が幾筋も流れ、そのたびに橋を渡らなくてはなりません。そして、赤坂湊に到着しました。「一五三〇年まではここが揖斐川の本流でした。明治になって五〇〇隻余の船が石灰を運ぶために利用していました。」それが、今日、親水公園となつてゐるんださうですが、まあ、今日歩いてきた揖斐川の歴史を振り返つただけでも、この地の人々が水害でいかに苦しんできたことがよくわかりました。

赤坂宿本陣跡公園には、一一時四五分到着。一六二〇〇歩でした。ストレッチをこなし、バスを待つて、それから、ほんとは名古屋城が望みなんですが、ぐつとこらへて、みなさんとともに、養老の瀧をめざしました。

 

今日の寫眞・・自然居士姿(?)の方。どう見てもぼくに似てゐるといふのです。妻はこれを見て、ぼくが扮裝したものと思ひましたもんね! それと、揖斐川から見た伊吹山と、赤坂宿本陣公園と養老の瀧にて。

 



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