五月廿八日(木)甲辰(舊四月十一日 曇天

 

今日は中仙道の三日目ですが、豫定通り關ケ原合戰場の史跡をめぐりました。どんよりとした曇り空で、昨日と交換してくれればよかつたのにと、つい思つてしまひました。

さて、はじめ、關ケ原町歴史民俗資料館で豫習したのち、ガイドの三和敏郎さんの引率でめぐり歩きました。さながら、關が原合戰場の實地檢分です。

まづ、資料館から最も近い細川忠興の陣跡を訪ねました。北東方向です。ついで、丸山狼烟塲に上り、合戰場のやや全體を俯瞰しました。さらに溜池とおぼしき三つの池の縁をめぐつて、勝敗を決めた決戰地を訪ねました。田圃や畑だけが許された廣々とした土地は、その全體が國の史跡となつてゐて、建物がまつたくないのはそのためでした。

その向かひ、北西側に島左近の陣跡、さらにその背後の笹尾山の石田三成の陣跡にのぼりました。ここからの兩陣形を見て、三成はさぞ戰勝氣分にあつたことでせう、と三和さんがおつしやつてをられました。左手に南宮山とそのふもとの桃配山。正面の谷間は、後に島津勢が中央突破した脱出路。やや右手に小早川秀秋の松尾山。その右手の天滿山の裏には大谷吉繼が控へてをりました。

笹尾山をおりて眞南に向かひ、島津義弘の陣跡、開戰地であつた天満山裾の小西行長の陣跡を訪ね、最後に、資料館にほど近い、德川家康最後の陣跡である床几場に到着しました。

今まで、關ケ原合戰の參考書を讀んでゐても、その地形が漠然としてゐたんですが、これでしつかりと把握できました。それにしても、八萬から九萬の軍勢が戰ひあつたなんて、考へられないくらゐ狹い場所だと思ひました。

資料館を出發したのが九時半、歸着は一二時、九三〇〇歩でした。

つづいて、胡麻の鄕と關ケ原鍾乳洞を見てバスに乘り、途中の養老サービスエリアで自由晝食。そしていつもの新幹線で歸路につきました。とても樂しい修學旅行の氣分でした。

 

今日の寫眞・・關ケ原合戰場めぐり。丸山(岡山)狼烟塲。笹尾山、石田三成の陣跡からの眺望。島左近の陣跡あたりから見た決戰地と南宮山を望む。つづいて島津義弘の陣跡。最後は、德川家康最後の陣跡である床几場です。

 



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